八王子城

秀吉の関東征伐に備えて築城されましたが,北国勢(前田・上杉隊)の猛攻を受けて落城しました。城主北条氏照は小田原城に籠城していて不在でした。


城郭構造:山城
公式HP: オフィシャルガイドボランティア
年代: 1587~1590年  城主: 北条氏照
所在地:東京都八王子市元八王子町・下恩方町・西寺方町
訪問日:2015年9月
駐車場情報:入り口の手前,管理棟の上に50台以上のスペースがあります。

遺構満足度:★★★★ 体力消耗度:★★★★★(登山です) 
犬連れ快適度:★★★★


駐車場から本丸跡を見上げます。

攻城豊臣軍は現在の陣馬街道を西から進入,恩田町からUターンするように八王子城の東麓に布陣しました。前田,上杉,真田隊合わせて15000余り。一方主力を率いて小田原籠城に加わった城主北条氏照を欠く守城軍は,城代横地監物以下3000と言われていますが,果たしてどうでしょうか。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


我が隊の隊長はヤル気まんまんです。

 


近藤曲輪跡

1590年7月24日(旧暦6月23日),霧深い未明のことだったそうです。元北条家臣大道寺政繁隊を先鋒に北から前田隊,東からは上杉隊が総攻撃をかけました。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


山下曲輪跡。

近藤曲輪,山下曲輪は守将近藤出羽守が討たれて夜明け前に抜かれました。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


金子曲輪跡

激しい銃撃戦の末,前田利家隊が金子家重隊を退けて攻略


FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS


小宮曲輪跡。

守将狩野一庵は松木曲輪,山頂曲輪と連携して前田勢を苦しめましたが,上杉隊の藤田信吉が調略した八王子城の普請奉行平井某の案内で奇襲をかけたため遂に陥落します。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


八王子神社

築城の際,氏照が建立。山頂にある三曲輪の中心に位置していました。おそらく小宮曲輪を破った攻城軍がここを制圧したことで,曲輪の連携が絶たれ,勝敗が決したと思われます。本丸に登る坂道より撮影。画面左方向に小宮曲輪,右奥が松木曲輪。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


松木曲輪跡

中山勘解由が守備した松木曲輪は最大の激戦地となりました。その勇猛ぶりを惜しみ,前田利家,上杉景勝それぞれから降伏勧告がなされましたが,勘解由はこれを受け入れず,妻とともに奮戦し,最後はその妻と幼子を斬って討死しました。後にその潔い戦いぶりに感動した秀吉は,実検した首を北条方に送ったと伝えられています。また家康は小田原籠城に加わっていた勘解由の遺児二人を探して小姓に取り立てたそうです。馬術に秀でていた長男は秀忠の使番から関ケ原,大坂の陣で武功を重ね,3500石の御旗奉行に出世。次男はさらに家康の信頼厚く,幼い徳川頼房の家老に抜擢され,水戸徳川家の成立に尽力して2万6千石,頼房の子,水戸光圀を守役として養育し,藩主に推挙したことで知られています。

一方,寝返って攻城軍先鋒として戦った元北条家臣大道寺政繁は,最も武功があったにも係わらず,秀吉に許されることなく戦後に川越城で切腹を命ぜられています。

忠節を通した勘解由。激動の中で一族郎党,家臣団のために北条を見限り,豊臣軍として戦った政繁。運命を分けたのは組織の論理でした。この後,江戸時代を通して,武家社会では忠義を重んじ,個が軽視される「武士道」が形成されます。角度を変えると,「武士道」には精神論や哲学とは別に,日本人の性格を巧妙に利用して支配層に都合よく作られたモラルとしての側面が見えてきます。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


山頂到着
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS


 


本丸跡

三曲輪の連携を指揮していた大石照基は,最後に手勢を集めて攻城軍に突撃し,城代・横地監物が脱出する時間を作りました。落ちのびた横地監物は山中で自害したとも,檜原城にたどり着いて開城を説得したとも伝えられています。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


誰が手向けるのか,山頂曲輪に設えられた花器には花が飾られていました。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


下山して近藤曲輪から御主殿跡に向かいます。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


御主殿は城主氏照の館などがあったとされる場所で,籠城戦時には氏照夫人比佐を始め,婦人や子どもたちが収容されていました。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


御主殿の滝

攻城軍が突入する直前に,妻女たちがこの滝に身を投げたため,水面は三日三晩に亘って血に染まったと伝えられますが,実際に行ってみるとそれが史実でないことはすぐに分かります。滝は落差が2メートル,滝壺も直径3メートルほどのこじんまりしたもので,とても大勢の女性たちが身を投げることなど不可能です。

そもそも御主殿は午前1時とも3時とも言われる真夜中の開戦から間なしに包囲されています。滝に身を投げるどころか,暗闇の屋敷内で状況も分からないまま,100人以上の女性たちが子どもとともに自害したということ自体ありえないのです。では,夜明け前の御主殿で何があったのか。これは推測するしかないのですが,攻城軍に虐殺されたという説が最も自然な解釈だと思います。狭い曲輪で無抵抗の妻女や子どもを100人も殺害すれば,川が血に染まるのも道理です。もちろん,身分の高い夫人たちの中には,包囲されたと知って絶望し,自ら命を絶った人もあったでしょうが,一般の婦女子たちは抵抗しなければ,攻城中に殺害されるとは思っていなかったでしょう。

前田隊280首
上杉隊273首

攻城側の各隊が秀吉に報告した首級数です。数字が妙に近いところに操作,改ざんの匂いがします。

豊臣軍にあって北国各勢には関東征伐で目覚ましい成果を上げなければならないというプレッシャーがかかっていました。三成ら官僚派の台頭で,武闘派の大名は微妙な立場に追いやられていた上に,担当した支城攻略や処理に手間取るうちに,ライバルである徳川軍を中心とする東海道勢が山中城を半日で落とすなど破竹の勢いで小田原に進攻していたからです。

北国勢としては,北条方の中で主戦派だった氏照の居城を,山中城よりも華々しく落とす必要があったと思われるのです。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS (画像処理で一部色を変えています。)

 


山中城に籠城していた兵は5000。八王子城は3500ということになっていますが本当でしょうか。大坂から20万を超える大軍が押し寄せ,箱根峠で難攻不落を誇った山中城が半日で抜かれてから4か月。城主が主力を率いて留守にした城に,果たして3500人の将兵がとどまっているものでしょうか。半数以上が逃げ散って800人前後だったとする説があります。実数に近いのではないでしょうか。数百人は付近から徴発された職人や若者たち,1000人ほどは戦場となった恩田,横川から収容された一般住民たち,そして妻女や子どもたちが1000人余り。

これには守備側だけでなく,攻める北国勢も大いに困ったことでしょう。1万5000対800の戦で城を落としても,果たしてそれが戦功になるでしょうか。

…記録に残らない暗闇の虐殺は首級数の改ざんのためになされたと考えるとつじつまが合います。栄光の戦歴を誇る前田家も上杉家も真田家も,豊臣政権下で生き残るためにはきれいごとばかりではすまなかったことが想像されます。

この攻城戦には前田のかぶき者も,「愛」の前立てのヒーローも,真田の正義の智将も参加していました。戦争とはそういうものです。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


御主殿跡

氏照が豊臣軍を迎え撃つために全精力を傾注して築いた北条方最強の八王子城…その悲劇的な落城の報は北条勢に衝撃を与えました。翌日から韮山,津久井の各城が次々と開城し,12日目に小田原城が降伏開城しました。

そのため,八王子城の落城を以て「戦国時代の終わり」とする人もいます。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 

9月末,10時駐車場発,近藤曲輪付近で霧雨,ミステリアスな霧が覆い,撮影には都合のよい条件になりましたが,愛犬の足はドロドロ。12時30分下山,管理棟前の足洗い場で犬の足も洗わせてもらいました。

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