武州松山城
市野川が蛇行してできた広大な平地の中央に聳える堅牢な山城。
城郭構造:山城
公式HP:
吉見町
年代: 応永年間(1394~1428年)?~1601年
おもな城主: 上田友直 上杉朝定 大田資正 上田憲定
所在地: 埼玉県比企郡吉見町北吉見
訪問日:2014年10月
駐車場情報:吉見百穴の大駐車場が隣接
遺構満足度:★★★★ 体力消耗度:★★★ 犬連れ快適度:★★★★★
城山全景
室町時代,松山城は北関東の要衝となってきたことから扇谷上杉氏と山内上杉氏,関東足利氏による三つ巴の激しい争奪戦が繰り広げられます。そこに南から後北条氏が進出すると,今度は新旧勢力の争いに発展,めまぐるしく城主が入れ替わりました。決着を着けたのは越後の上杉謙信です。永禄四(1561)年,北条氏に寝返った上田氏を不義とし,9万の大軍で包囲して陥落せしめ大田資正(すけまさ)を城代に据えたのです。
大田資正は猛将として知られますが実は大変な愛犬家でもありました。甲陽軍鑑には岩槻城と松山城にそれぞれ50頭の犬を飼っていたと書かれています。犬と3人暮らしている私たちとしては是非とも訪ねざるを得ません。もちろん我が家の甘えん坊犬と違って松山城の犬は日々たゆまぬ訓練を積んでいました。…そう,日本で初めて軍用犬を実戦に使ったのも資正なのです。
岩室観音堂
城山の北斜面に懸造りのお堂が聳えています。吉見町のHPによれば岩室観音堂の開祖は弘法大師。観音像を彫って岩窟に納め岩室山と号したとあります。歴代の城主が信仰,護持して来ましたが,秀吉による関東征伐の際,前田隊上杉隊によって焼かれてしまいました。現在のお堂は江戸時代寛文年間に再建されたものです。
観音堂からも岩を切り開いた本丸へのルートがあるそうなので裏に回ってみました。
…パスです。これはムリでしょう(笑)とても人が登り下りするのは困難です。もしかしたら資正の愛犬専用路だったのかもしれません。たとえ敵兵が待ち構えても犬が全力でこんなところを駆け下って来たらとても斬ったり捕えたりできるものではありません。
西側の登山口
あとから分かったのですがここも険しい直登ルートで,ふつうは勾配が緩やかで各曲輪の跡なども見学しやすい北東側の諸道から登るのがよいそうです。
胸突きの急坂をなんとかよじ登って行きます。これでも観音堂の裏よりはずいぶんとマシに思えます。
本丸跡
そしていきなり本丸に出ました。
資正の愛犬が活躍したのは城代となったその年の暮れ,北条氏康が奪還を期し,氏政,氏照,綱成ら一族の兵3万を率いて松山城を包囲したときでした。松山城主を務めていた上杉憲勝は,資正の犬の中から精鋭5頭を選び首輪に密書をつけて放ちます。犬たちは北条軍の包囲を破り資正のいる岩槻城に急を知らせました。資正は電光の援軍を送り北条軍を撃退したと伝えられます。世に言う「三楽犬の入れ替え」という戦術です。山楽斎とは後に剃髪した資正の号です。
頂上にある城跡の碑
多勢のしかも主力を投じた北条軍を挟撃して退けるには守城軍と援軍の連携が不可欠です。その連絡にも犬たちが活躍したことは想像に難くありません。犬たちが運んだ密書は水に濡らすと文字が浮かび上がる工夫が施されている「白文の陰書」だったそうです。
本丸から岩槻城のある南方向に下る急階段がありました。犬はピッチの狭い階段が苦手なのでタローも臆しています。三楽の犬たちもここは下りられないでしょう。
二の丸跡
南と西は河岸段丘の急な崖。北東に向かっては二の丸からこの奥に段々と各曲輪が広がる構造になっています。小さな規模で謙信,信玄,氏照ら名うての名将を苦しめた訳が見て取れます。
三楽斎と犬たちが死守した戦いのわずか2年後(永禄6年)には,甲斐武田氏と同盟を結んだ氏康によって再び奪還されています。以来,豊臣軍による関東征伐まで四半世紀に渡って北条氏の支城として機能しました。三楽斎資正は嫡男に岩槻城を追われ,謙信とも仲違いし不遇のうちに生涯を終えています。犬たちの行方は記録に残っていません。
北東側に道のあることを知らなかった私たちは登ってきた道をまた下ります。眼下に市野川が光って見えます。