石田堤

天正18(1590)年6月,忍城水攻めの際に石田三成によって築かれた全長28kmに及ぶ巨大な堤。


構造:盛土堤
公式HP: 行田市教育委員会
年代:1590年  
施主: 石田三成
所在地: 埼玉県行田市堤根1262地先/行田市埼玉4834
訪問日:2014年10月
駐車場情報:どちらも専用無料駐車場あり

遺構満足度:★★★ 体力消耗度:★  犬連れ快適度:★★★


全景

新忍川にかかるコンクリートの橋を訪ねて来たわけではありません。中央に見える樹木で覆われた土手が石田堤跡。

1590年6月,関東征伐に下向した豊臣軍が忍城を囲みます。その数,総大将石田三成以下20000。麾下の武将は軍師に大谷吉継,長束正家,さらに佐竹義宣,多賀谷重経,大関晴増,これとは別に真田昌幸が援軍として後詰しています。対する忍城は小田原城入りした城主成田氏長に代わって甥の成田泰季が城代を務め,兵300と領民2700の計3000が篭城しました。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


石田堤

寄せ手が選んだのは,かつて秀吉軍が備中高松城で成功させたあの水攻めでした。荒川や忍川に囲まれた行田の地形を利用し,一帯を水に沈めて,城を孤立させる作戦です。三成が雇った人夫は10万人,総延長28kmの大堤防を工期僅か5日で完成させました。
FUJIFILM X-E1 + XF55-200mmF3.5-4.8 R LM OIS

 


ところが折からの梅雨で荒川の上流が増水し,石田堤が決壊して豊臣軍は苦戦を強いられます。結局,小田原の本城が先に降伏し,忍城は籠城兵たち全員の助命、財産保証という異例の条件で和議開城しました。
FUJIFILM X-E1 + X-E1 + XF55-200mmF3.5-4.8 R LM OIS

 


石田堤史跡公園
FUJIFILM X-E1 + XF55-200mmF3.5-4.8 R LM OIS


展望台?
FUJIFILM X-E1 + XF55-200mmF3.5-4.8 R LM OIS

少々北に移動して,ここはさきたま古墳群の中にある稲荷山古墳の上。


国宝 「金錯銘鉄剣」が出土して一躍脚光を浴びた前方後円墳です。なぜにこんなところに来ているかと申しますと,石田堤でいちばん高い場所がここからよく見えるからなのです。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


丸墓古墳(石田三成陣跡)

忍城攻めの際,三成がこの古墳を指揮所に使いました。当時は左右に堤が続いていました。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


この場所に立てば,忍城がいくら湿地の中央に立つ堅固な立地だと言っても八王子城や山中城に比べれば攻略しやすいことは誰の目にも明らかです。ましてや2万対300。総攻撃となれば半日もたなかったはずです。ですから状況証拠の総合になりますが「水攻め」はおそらく秀吉の発案によるもので,石垣山の一夜城と呼応するイベントとして豊臣家の力を示威し,戦後のスムースな領地運営につなげる狙いがあったと考えられます。そして当時,ここまで大規模なプロジェクトを指揮する才能があったのは,秀吉本人を除けば三成を置いて他にはいません。家康と家臣団にしても,とうていこれだけのプロデュース能力はなかったでしょう。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 


丸墓古墳から忍城を望む

関東征伐軍に於いては,唯一石田隊のみが館林城においても忍城においても和議によって城を開城させています。言い方を変えると,領民が数多く籠城する城を総攻撃しなかったということです。これは彼が指揮官として,局地的な戦況だけでなく,非戦闘員への配慮,戦後の領地運営など様々な視点を持っていたということ,そして秀吉から絶対的な信頼を受けていたことを示しています。もちろん戦闘指揮官としての能力の高さも,この忍城攻めで配下にあったほとんどの武将が,関ケ原において,三成に運命を託したことが証明しています。
FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS

 

おまけ画像をふたつほど…


鉄筋コンクリートで再現されている忍城御三階櫓
EOS 5D Mark II + EF17-40㎜ f/4lL USM


バルブ撮影中,退屈した妻と愛犬が画角内に居座り,わざと露光されることで撮影を妨害するというあり得ない暴挙に出たため,中途半端な長さで星の光跡が終わっています。


行田フライ

実はこの旅の目的は,一度食べてみたかったこの食べ物の方が主でして,石田堤はその「ついで」でした。行田フライは地場産業だった足袋工場で働く女工さんたちのおやつとして生まれたそうです。ただのお好み焼きと侮るなかれ。今や人気のB級グルメとして,休日昼時の有名店には大行列ができていました。

crap ←「拍手ボタン」です。このコンテンツをお気に召されましたらクリックをお願いします。