真田丸

慶長19(1614)年,冬の陣に際し,真田幸村(信繁)が築いた大阪城の出丸。


構造:平城
公式HP: 真田庵/九度山町 茶臼山古墳/大阪市 安居神社/大阪市 真田丸/三光神社
年代:1614年  
施主: 真田信繁
所在地: 真田庵/和歌山県伊都郡九度山 真田丸/大阪府大阪市天王寺区
訪問日:2013年10月
駐車場情報:真田庵/町営駐車場あり 真田丸/なし 周辺にコインパーキング多数

遺構満足度:★ ロマンどきどき度:★★★  犬連れ快適度:★★★(真田丸)


真田庵

まずは九度山からご案内しましょう。関ヶ原の戦いで真田昌幸・幸村父子は,徳川秀忠率いる3万8千余の徳川軍主力を,わずか5000の軍勢で翻弄し,ついには徳川最精鋭軍を決戦に遅参させました。それでも結局西軍は敗れましたが,東軍に所属した真田信幸の助命嘆願がかない,父子は許されて紀州高野山蟄居となりました。しかし実際に高野山で生活することは困難だったので,麓の九度山に庵を結んだと言われています。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


善名称院

再起を期しながら,昌幸は失意のうちに九度山で亡くなりました。
EOS5D Mark II + EF17-40mm f/4 L USM

 


冬の陣に際し,徳川家康がつけた監視の目を掻い潜って庵を抜け出そうとする幸村・大助父子を,地元九度山の人々が手助けするシーンは講談などでお馴染みの名場面です。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


与謝蕪村句碑

炬燵して 語れ真田の冬の陣 蕪村

20年くらい前に来たときの記憶ではもっと大きな碑だと思っていたのが意外と小さい石でした。蕪村の最高傑作のひとつではないでしょうか。冬の夜,炬燵に家族が集まる団欒風景が目に浮かんできます。孫たちにせがまれて,おじいさんの語る真田幸村物語は昨夜の続きでしょう。佐助や才蔵の活躍に子どもたちはやんややんやの喝采。家康の陰謀にはごくりと唾を飲む。江戸時代からスーパーヒーローだった真田幸村。日本人はいったいどこまで判官びいきなんでしょう。

とまれ,真田幸村,いよいよ大阪入城です。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


真田山公園

玉造駅にあるコインパーキングに車を停めて駅前商店街を抜けると,閑静な住宅街になんの変哲もない公園が現れます。真田山公園です。道路をはさんだ南側は野球場のある平地ですが,北側は小山になっています。その名が示す通り,この丘陵が幸村の築いた真田丸跡です。
EOS5D Mark II + EF17-40mm f/4 L USM


折しも紅葉たけなわの関西地方。

北に行けば歩けるほどの距離に大阪城があります。当然です。真田丸は大阪城の出丸なのですから…。でも,それにしては距離がありすぎる…これはやはり曲輪と言うより,絶妙な距離に築かれた城です。別名を偃月城。堅牢な本城を攻めあぐねた徳川勢が,真田丸におびき寄せられて散々にやられる痛快劇はほぼ史実通りでしょう。戦の天才だった父昌幸の下でほとんどの作戦の事務方を担ってきた幸村の実力は計り知れません。彼を称して「最後の戦国武将」と呼ぶ所以です。
EOS 5D Mark II + EF17-40㎜ f/4lL USM

 


真田山の西側は陸軍戦没者墓苑を中心にいろいろな施設の跡地にもなっていて,現在は地元の人たちの散歩コースになっていました。愛犬タローはここで,ピンクのリボンをつけた真っ白なポメラニアンと恋に落ち,数分のうちに相思相愛の仲となりましたが,如何せん遠距離恋愛にて,恋は成就せずそのまま儚く終わりました。
EOS5D Mark II + EF17-40mm f/4 L USM

 


三光神社

真田山の北端にあるこの神社が真田丸本陣跡と言われています。
EOS5D Mark II + EF17-40mm f/4 L USM

 


幸村像

30年ほど前に建立されたそうで,台座の石は,信州上田にある真田家の菩提寺から運んだという凝りようです。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


真田の抜け穴

ここが本陣跡であるという説の根拠となっているのが宮の真下にある地下道の存在です。幸村の掘らせた抜け穴で,大阪城内まで続いていると言われていました。でも調査の結果,どうやらそれほど古い穴ではなく,帝国陸軍が何らかの目的で掘ったという説が現在では有力のようです。
EOS5D Mark II + EF17-40mm f/4 L USM

 


抜け穴が偽物…だからどうしたという感じです。たとえこの抜け穴は違っていたとしても,真田丸に幸村が抜け穴を設けなかったはずはありません。きっと,この山のどこかの地下に埋もれているはずです。その地下道を草の者たち(忍者)が駆けたのでしょう。訪ね来た方々,この境内でゆっくりと真田の戦に思いを馳せようではありませんか。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


天王寺公園

新世界にて初めての本場串揚げなど頂いてから,天王寺公園に向かいましたが,犬を連れては入れてくれませんでした。困りました。公園内に大事な史跡があります。
EOS5D Mark II + EF17-40mm f/4 L USM

 


茶臼山

基本,私たちの旅は犬が中心です。仕方がないので,裏門の鉄格子の間から望遠レンズで狙いました。茶臼山です。冬の陣では家康が本陣を置きました。変わって夏の陣では真田丸を失った幸村が陣を構えます。大阪城の東側に徳川軍の主力をおびき寄せ,幸村が手薄になった家康の本陣を突くという作戦は,西軍の軍律の乱れから失敗に終わります。そこから乾坤一擲,幸村の伝説の三段吶喊が始まりました。幸村軍は戦乱に乗じて茶臼山を下り,家康本陣に三たび突撃したのです。

真田太平記では草の者お江が幸村の供をします。「燃えよ剣」のおゆきと「真田太平記」のお江。果たしてこの二人ほど魅力的な女性が存在するでしょうか。私はこの二人への思慕のために,10代の後半という青春真っ只中を,現実の女性に興味が持てないまま過ごしてしまいました。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


安居神社

天王寺公園の北にある安居神社。ここも犬は立ち入り禁止なので,タローは入り口脇の涼しい日陰を借りて,しばらく待たせることにします。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


幸村終焉の地

三段吶喊の末,家康本陣近くまで奇跡の肉薄をし,家康を自害寸前ににまで追い込んだ幸村軍でしたが,徳川援軍の到着に,主だった武将を失いながら,ついに茶臼山の北まで押し返されて潰走しました。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


幸村はこの松の木の根元で休んでいるところを徳川軍に囲まれ,福井藩士西尾某によって討たれました。最期のことばは「わしの首を手柄にされよ」 享年49才。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


再び真田山に戻りました。かつて真田丸を埋めた真田の赤備えを思わせるが如く,今は桜の葉が真っ赤に紅葉しています。幸村の魂もまだ燃え残っているように思えます。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 


真田山に夕日が沈みます。
EOS5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM

 

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