新府城

武田勝頼最後の居城


構造:平山城(連郭式)
公式HP: 韮崎市
年代:1581~1582年  
主な城主: 武田勝頼
所在地: 山梨県韮崎市中田町中條
訪問日:2016年4月
駐車場情報:北側,桃畑の外れに二カ所あり。搦手門に近い西堀に面した駐車場へは狭い農道を行かなければならないので, 桃畑の農作業が忙しそうな時期には県道17号線(七里岩ライン)をはさんで東側の駐車場を利用しましょう。

遺構満足度:★★★★ ロマンどきどき度:★★★★  犬連れ快適度:★★★★★

東京から中央高速を西に走ると,韮崎インターを過ぎたころから左手に高さ40mを超える巨大な崖「七里岩」が見えてきます。八ヶ岳が山体崩壊を起こした際の大岩屑流を釜無川と塩川が挟みこむように河岸侵食して,その名の通り30km近い断崖の台地を作ったものです。

七里岩

まるで自然が作った要塞のようなこの崖の上に武田家の居城を移すことを最初に提案したのは,かの軍師山本勘助だったと言われています。この時代に四方明け透けな甲府盆地に起居するなどという大胆さは,信玄なればこそできた業。勝頼の将来を案じた勘助の意見を入れ,そのときに信玄自身が七里岩に城を築いておくのが現実的な選択だったのではないでしょうか。
EOS 5D Mark II + EF70-200mm f/2.8 L USM


満開の桃畑の風に,に大河ドラマ「真田丸」の真新しい幟旗がなびいています。ドラマの第一話で新府城はあっけなく燃えてしまいますが,現実にも1581年の築城開始から1年あまり,勝頼入城からは僅か3ヶ月で未完成のまま焼失します。

Xperia Z Ultra SOL24


西堀跡

桃畑があんまりキレイなので,今日は北側を散歩しながら搦手門に向かいます。最近発掘調査が進んだ地域です。
EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


勝頼の命を受け,新府城を縄張りしたのは真田昌幸です。彼の設計には「鉄砲出構」や「蔀の構え」と呼ばれる土塁など,当時としては極めて斬新な工夫が施されていましたが,勝頼の武田家はすでにこの土木事業を支えきれませんでした。築城のコスト負担は疲弊していた武田領各地の財政を逼迫し,遂には木曾義昌の謀反へと発展します。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


桝形から乾門跡

武田家滅亡の原因は長篠の敗北に非ず。御館の乱で景虎を見殺しにしたこと,そして高天神城の戦いに後詰を送らなかったことの2点が大きかったとされます。家臣,国衆,同盟国などの信頼を失ったからです。…が,勝頼にしてみれば,どちらもぎりぎりのところで関係国や織田の脅威を調整しようとしていたように思われます。要するに権謀術数では,徳川や織田の方が数枚も上手だったのです。
EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


井戸跡

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM

長篠の戦いから武田家滅亡まで,7年間のできごとを甲相駿越の外交を中心にピックアップしてみました。

1575年06月 長篠の戦い
1577年01月 北条夫人婚姻
1578年03月 御館の乱
1578年12月 菊姫景勝婚約
1579年04月 上杉景虎自害
1579年09月 徳川・北条同盟
1580年10月 家康第二次高天神城攻撃
1581年02月 新府築城開始
1581年12月 勝頼新府入城
1582年01月 木曾義昌離反
1582年02月 織田・徳川連合甲斐進攻
1582年03月 天目山の戦い


「蔀の構え」跡

寄せ手に対して本丸の位置を惑わせる植え込みを設け,側面攻撃しやすい場所に誘い込むために土塁を食い違いにした新府城独特の造り…だそうです。記録には残っていませんが誰のアイデアなのかバレバレですね。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


本丸跡に建つ藤武神社

山梨県神社庁のHPに依れば,勝頼が築城の際城内稲荷郭に鎮守として祀ったとあります。落城のとき焼失したものを藤武神社に対する尊崇篤い(笑)家康が再建したそうです。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


武田勝頼公霊社

両側に並ぶのは武田十四将霊碑です。有名な二十四将ではなく十四人…すべて長篠の戦いの戦死者です。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


中でも父幸隆譲りの勇猛で知られた真田信綱は,長刀・青江貞を振るい馬防柵を次々となぎ倒して徳川本陣に迫ったそうですが,勝頼の撤退命令を受けて殿を務め,弟昌輝とともに銃弾に倒れました。

本来ならば信綱の幼い嫡男が家督を継ぎ,昌幸は信尹とともにその後見に回るべきところ,勝頼の裁定で即戦力だった昌幸が真田家を継ぎました。これは多くの人材を長篠で失った武田軍の非常事態による言わば緊急措置です。

嫡流を示すため,信綱の長女を昌幸の長男信之に妻合わせたのもおそらくは勝頼でしょう。清音院殿…本名は伝わっていませんが,大河ドラマ「真田丸」では,おこうという名で登場し人気を博しています。やがて徳川家康の養女として輿入れする小松姫に遠慮して正室の座を譲る形となりますが,信之の愛情は変わらず側室になってから嫡男信吉を出産しています。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


本丸跡から桃の花に埋まる七里岩を臨みます。遠く聳える八ヶ岳まで続く台地です。水はけがよく稲作に適さないため,かつては一面の桑畑でした。春には白い花を咲かせたことでしょう。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


城跡に植えられたソメイヨシノは桃の花と入れ違うように,花吹雪となっていました。新府城には勝頼の正室北条夫人も入城し,夫と運命を共にします。長篠敗戦後の1577年に僅か12才で輿入れしました。肖像からは桜花のごとき可憐な容姿が想像されます。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


甲相同盟修復の申し入れを受けて敵国甲斐に嫁いだにも拘わらず,勝頼は御館の乱で景虎をサポートできなかった上,逆に乱を制した上杉景勝に娘菊姫を嫁がせて甲越同盟を結んでしまいます。信玄の裏切りによって破棄されていた甲相同盟は再び破綻しました。

10代の北条夫人は同盟解消に伴い実家に帰されるところ勝頼と添い遂げる道を選びました。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


ほとんど崖と言っていい藤武神社の参道です。石段や迂回路のなかった当時の新府城を北東側から攻めるのは全く不可能だったでしょう。

FUJIFILM X-E1 + XF18-55mm f2.8-4R LM OIS


東出構えの遺構を通って駐車場に戻ります。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


七里岩ラインを北上すると,穴山という集落があります。数年前にバイパスが整備されて,うっかりすると気づかずに通りすぎてしまうほどの小さな集落です。かつて武田姓を許された重臣穴山氏の本拠地でした。勝頼に新府築城を進言したのは信玄の信頼も厚かった穴山信君(梅雪)ですが,城の着工前には織田方への内通を始めていました。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


甲斐駒ケ岳遠望

さらに北上し日野春の手前から南アルプスを顧みます。1904(明治37)年に中央本線の韮崎~富士見間が開通して以来,数多くの画家がこの風景を愛して画架を立てました。甲州征伐においては,木曾義昌軍に敗れた武田軍撤退の道でした。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM

長坂インターから中央高速を東京方面に向かいましたが,まだ昼過ぎだったので,天目山に寄って行こうと思い立ちました。


勝沼インターを流出し,甲州街道の甲斐大和の道の駅で遅い昼食にします。数年前,笹子トンネルが崩落事故で長期間通行止めになったときに何度も通った道です。

Xperia Z Ultra SOL24


地粉で打ったその名も天目蕎麦の味は微妙でしたが,以前から食べてみたいと思っていた葡萄の新葉の天ぷらがちょうど旬のメニューにありました。

Xperia Z Ultra SOL24

3月3日に新府城を放棄した勝頼一行700人は,岩殿城の重臣小山田信茂を頼って本拠地甲府盆地を通過しその日のうちに勝沼に到着。さらに,9日には現在の甲斐大和駅付近に分宿し,翌10日に笹子峠へ向かいました。しかし,織田方に寝返っていた小山田の兵によって峠の入り口で行く手を阻まれます。脱落者が相次ぎ,すでに50人弱(うち3割は北条夫人と侍女たち)となった主従は行き場を失い日川沿いを逆に北上します。武田家の菩提寺栖雲寺に死地を求めたのでしょうか。それとも大菩薩峠を越え,遥か北の岩櫃城での再起を目指したのでしょうか。


天目山の中腹で地元小山田の兵に案内された徳川軍に先回りされた勝頼はいよいよ進退窮まって覚悟を決めました。午後になって甲斐大和から僅か3kmほどの田野の里まで下り,滝川一益率いる織田軍本隊との決戦に挑むべく鳥居畑という小さな平地に陣を張りました。そして16才の嫡男信勝に家督譲渡の式を執り行ったと伝えられています。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


翌11日朝,織田勢4000余が十数人の武田勢を襲いました。天目山の戦いです。侍女たち十数人は自刃して日川に身を投げました。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


武田信勝生害石

前夜,武田家を継いだ信勝は土屋昌恒,金丸定光ら最後まで従った家臣とともに奮戦して遂に銃弾を受け,本陣の勝頼夫妻の前で自刃。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


武田勝頼,桂林院(北条夫人)生害石

続いて夫妻が自刃しました。勝頼享年37才,北条夫人19才。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


景徳院

数か月後,天正壬午の乱において甲斐の領主となった徳川家康が同年7月に,鳥井畑の陣一帯の土地を寄進し,勝頼一行の菩提を弔うために創建した寺です。もちろん家康に殊勝な心があったわけもなく,旧主の霊を篤く遇することで領民の信を得るのが目的だったのでしょう。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


今や看板や古くなった観光用の幟などが雑然と置かれ,物置に使われているようなお堂の裏に勝頼主従の供養塔が建っています。江戸安永年間の「200年遠忌」に際して建立されたものです。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


栖雲寺方面に少し峠を登ってみると,民家の庭にコヒガンザクラが美しく散り残っていました。勝頼がコヒガンザクラの故郷高遠城主だったのは信玄の元で華々しい活躍をしていた16才の頃のことでした。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM
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