白石城

仙台藩伊達氏の支城,片倉景綱の居城として一国一城制の例外とされた。別名益岡城。


構造:梯郭式平山城
公式HP: 一般社団法人白石市観光協会「白石城」
年代:1591-1875年  
主な城主: 白石,蒲生,上杉,片倉氏
所在地: 宮城県白石市益岡町1-16
訪問日:2016年10月
駐車場情報:市役所隣接の城下広場駐車場。

遺構満足度:★ ロマンどきどき度:★★★  犬連れ快適度:★★★★


白石市内に入って,分かりやすい標識に導かれ,市役所の前にある駐車場に入ると,休日のこととて満車に近い状態です。

撮り損ねてしまったのですが,城に向かう道に「城来路(シロクロード)」というかなり厳しいダジャレの名がつけられていました。


高曇りで気温もそこそこ秋の東北,絶好の散歩日和です。


EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


城山に登る道の脇に古い石積みがありまして,結局,城で目にした遺跡はこれくらいです。


この顔の半分くらいが目で紅毛のキャラクターが阿菖蒲だそうでして…。白石市公式の幟らしき様子,観光客誘致の苦戦を物語っています。



ぎりぎりセーフの顔出し看板。なぜ東北白石に真田幸村かと申しますと,夏の陣で幸村と相見えた二代目片倉小十郎重長とその家臣が鍵を握っています。



1997年に木造で復元された三階櫓(天守)

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


本丸も市民公園として整備されています。



銃眼土塀もなかなか凝った復元。



銃眼から蔵王が良く見えます。

寄せ手に鉄砲を向けるには些か角度が高いように感じます(笑)



復元天守の下に積まれている巨石はおそらく出土したオリジナルと思われますが,石垣の復元は難しいようです。国指定の遺跡ではないため予算も少なく,大震災での被害も市と地元だけで復旧したそうです。



「 クッキーかな?」



「なーんだ,スマホか。」

ツイッターを始めてから,世に城マニアのあまたいるを知り,その見識と知識の深さにびびって,城帖ドットは城レポから犬レポに軸足が移りつつある今日この頃。



銃眼土塀の下です。やはりあそこからは撃たれそうにありません。…と,城歩きらしきことを書いたりなんかしてます。


タローはすぐ外国人観光客にわっと囲まれます。

「英語の発音上手ですね。」

とほめられて苦笑するドレミ。公用語に英語も使われるシンガポールからのお客さんでした。



「戦国城跡写真帖」と名乗りながら,戦国遺構のほとんどない城をなぜ訪ねて来たのかと言えば,先ほどの真田幸村に話は戻ります。



EOS 5D Mark II
+ EF50mm f/1.2 L USM

夏の陣で敗戦を覚悟した幸村が,後藤又兵衛を討ち取った敵将片倉重長に陣中から手紙を書き,阿梅,阿菖蒲,おかね,大八,穴山小助の娘を託したのです。

もっともこれには諸説あり。重長が捕虜の中から助け出したとも言われていますが,重長が幸村の遺児を白石に連れ帰ったのは史実です。徳川幕府の追及にも真田信尹の縁者と届けて匿いました。


阿梅は侍女から後に重長の継室となり,また大八は家臣として重用されたと伝えられています。


城下当信寺に二人の墓を訪ねます。


当信寺門前には白石城の東口門(二の丸大手二の門)が移築され残されています。

EOS 5D Mark II + EF17-40mm f/4 L USM

EOS 5D Mark II + EF50mm f/1.2 L USM


阿梅(左),大八墓



真田丸放映中の休日なれど,訪ねる旅人もなく,縁側ではニャンコが大あくびしています。


撮影させてもらったお礼にお香料を納め,線香を立てようとしたらお香台に六文銭。

EOS 5D Mark II + EF24mm f/1.4 L USM


「まだぁ?」

タローは門前に繋いで待たせたので退屈してます。


よし行こうか…って,足踏んでるよ。


日曜の午前中とは言え,些か活気に欠ける中心街です。あちらこちらに温麺(うーめん)の看板あり。

よし,じゃ,車で阿菖蒲の墓に行く道の途中によさげなお店が開いていれば温麺食べようか。

EOS 5D Mark II + EF50mm f/1.2 L USM


いきなりありました。旅行サイトやグルメサイトで紹介されまくっていそうな,いかにもの店です。


タローを繋いでいると,店の人が「本日貸切」の看板を出しに来ましたが,タローを見て,

「まあ,かわいい。ええ,まだ団体の準備始まってないのでいいですよ。ぎりぎりセーフです。」

ラッキ~♪



正しい温麺。


冷たい温麺…ちょっと日本語的におかしい(笑)

EOS 5D Mark II + EF50mm f/1.2 L USM


今日はよく繋がれる日だ。


白石川を少し西に上ったところに,阿菖蒲が嫁いだ田村家の墓はありました。

田村家は伊達家と姻戚関係にあり,30代当主宗顕は三春城主でしたが,豊臣秀吉の不興を買って改易されていたところ,片倉重長の援助によってその家臣として再興しました。


真田幸村の六女阿菖蒲が嫁したのは,宗顕の嫡男高広で,その後片倉景綱(小十郎)の異父姉喜多の片倉家を継ぎました。


田村家墓

EOS 5D Mark II + EF17-40mm f/4 L USM


中央の角を挟んで右,小ぶりの直方体が阿菖蒲,その右が夫高広の墓。角の左が真田幸村墓。幕府を憚って墓石に何も顕彰されていないことから,遺品なりが納められている可能性あり。


なぜ,写真の状態がよくないのかと申しますと,違う石を阿菖蒲の墓だと勘違いして渾身撮りしていたのです。スマホに撮った墓の配置図を見ていたドレミの説明が間違えていたためです。

←こんな単純な配置図をどうやったら間違えられるのでしょう。


墓を下りて来ました。東北は秋たけなわです。

この地に匿われた幸村の子たちは,概ね幸福に暮らしたようです。

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