出羽荒砥城
米沢直江兼続領の北方(対最上氏)最前線。
城郭構造:平山城
公式HP:なし
年代: 1096年~17世紀半ば 主な城主: 荒川次郎清泰(藤原清衡家臣) 馬場将監(伊達家臣) 泉沢河内守久秀(直江兼続家臣)
所在地:西置賜郡白鷹町荒砥甲八幡
訪問日:2014年4月
駐車場情報:八乙女神社
遺構満足度:★
犬連れ快適度:★★★★
御楯稲荷神社
奥州の関ヶ原慶長出羽合戦の折は上杉本軍を率いて北上する直江兼続が戦勝祈願をしたと伝えられています。いつかこの鳥居で傑作写真をものにする予定です(笑)
荒砥城本丸跡
推定。山形県も白鷹町も史跡として発掘調査する気配,是なく今のところ資料がありません。
八乙女八幡神社
八幡太郎義家が東征の際,京都の石清水八幡を遥拝してこの丘に弓矢を立て奉ったのが起源とされています。
10年後の1096年頃,八乙女ヶ丘と名付けられたこの丘陵に築城したのは藤原清衡の家臣荒川次郎清泰とういう人物です。
八乙女種まき桜
置賜さくら回廊に選ばれているエドヒガンの古木です。
八乙女八幡神社を巡って本丸跡に戻ります。
1600年,石田三成らに呼応して,直江兼続率いる上杉本軍2万余が狐越街道を最上領に進攻したのが9月8日,畑谷城を落とし山形に向かったのは同13日のことでした。
15日,関ケ原にて僅か一日で西軍が敗れると,出羽合戦の形勢も一気に逆転しました。窮地に陥った敗軍をまとめた兼続は10月3日,荒砥城に帰陣との記録が残っています。
家康の命で慶長合戦が終結したのは翌春。
樹齢500年を超える八乙女の丘の桜木は,狐越街道を北上南下した上杉軍の出羽合戦をも,ずっと見下ろしていたことでしょう。