佐和山城
三成に過ぎたるものが二つあり,島の左近と佐和山の城.
城郭構造:連郭式山城
公式HP:ビワイチ佐和山城跡
年代: 12世紀後半~1606年 主な城主: 佐保時綱 堀秀政 石田三成
所在地:滋賀県彦根市古沢町
訪問日:2013年9月
駐車場情報:龍潭寺門前にあり。
遺構満足度:★★★★ 犬連れ快適度:★★★★★
ひこにゃんのいる彦根城からも佐和山はよく見えます。
現在,佐和山城跡への登山道へはは龍潭寺という古刹の境内を通り抜けさせてもらってアクセスします。門前には駐車場も整備されています。
参道から道は裏の墓地を通り,やがて山道となります。
北近江を見渡す佐和山の頂に砦が設けられたのは鎌倉時代初期のこと,しだいに軍事上の要衝となり六角,浅井,織田氏らが次々と奪い合いました。
やがて豊臣政権下で堀氏,堀尾氏の居城となります。
佐和山城が大改修され,全山要塞化したのは言わずと知れた1590年石田三成が入城してからのことです。
登山道の両脇だけでもタイヘンな構造の痕跡があります。
「 三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とは当時伏見城下の落書です。
この規模から見て,家康との争いに籠城戦まで考えていたのでしょう。関ケ原の野戦をせずにこの城に籠って上杉や毛利と連携していたら歴史は変わっていたでしょうか。
天守跡の手前で一際大きな堀切を越えます。
佐和山城の戦いの際,城方は僅か2800で城主は不在。この兵力で一日を持ちこたえ,婦女子の助命を条件に一度は和睦を家康が受け入れたそうです。
18日の戦闘と悲劇は連絡不行き届きのミスで起こりました。
本丸跡です。大きな石碑がありました。
誰もいるはずがないと思っていたら,なんとこんな山中にも単独行の若い歴女。もう瞑想入っちゃってます。近寄るのやめとこ。
そして,ん?タローの様子がへんです。
グロッキー。
だから登りであんまり張り切るなと言ったのに…。
実はタローよりグロッキーな男もひとりいますが,記念写真では二人とも元気なふりをしています。
石碑の後方東側の崖が落城の際婦女子が身を投げ,三日三晩うめき声が絶えなかったと言われる「女郎堕ち」です。しばらくは人が近づかなかったそうです。もちろんボクも近づきません。
下山しました。
山門の脇に三成の像があります。とても知性的な表情をしています。
この項,拙作「関ケ原散策画帖」にも記述があります。