岩村城

別名霧ヶ城。


城郭構造:梯郭式山城
公式HP:岩村町観光協会
年代: 1221年~1871年  主な城主: 遠山氏,秋山信友
所在地:岐阜県恵那市 岩村町城山
訪問日:2014年9月
駐車場情報:専用駐車場多数あり。

遺構満足度:★★★★★  犬連れ快適度:★★★★★


恵那インターを流出して国道257号線を南に向かったのは全くのきまぐれだった。休日最終日の午前中,ボクと妻のドレミと愛犬タローは中央道を東京に向かっていた。彼岸の空は晴れ渡り,東濃の山々には夏のような日差しが降り注いでいる。東京へは渋滞が始まるまでに入ればよいのでまだ数時間の余裕があった。せっかく晴れているのだから高速のトンネルを使わずに恵那山の南から旧道で峠を越えてみようと思った。

うん♪そうしようよ。

妻は観光地や街中でショッピングしたりお茶するのが旅の楽しみで行き先はどこでもよい。お任せでついてくるだけだ。もちろん妻も楽しめるように今回も「旅程の中に街歩きを配しておく」という布石はすでにソツなく打った。これが心置きなく史跡を旅するコツである。

標識に「岩村城跡」という文字,続いて「清酒 女城主」という看板を見た。女城主ということばにかすかな記憶があった。確か信長の縁者のはずだ。入り口の表示で迷わずハンドルを切った。道はいきなり羊腸の坂道となりナビがしきりに文句を言い出した。

最近の山城ブームで訪れる人も多いのか,出丸の跡に立派な駐車場が整備されている。建物にはキレイな化粧室もあって妻が使いに行った。その隙に急ぎスマホで女城主について検索してみる。岩村城に血塗られた歴史のようなあまり楽しくない記述の記憶がおぼろげにあったからだ。


果たして記憶は正しかった。

女城主は信長の叔母にあたる女性で名を艶(つや)という。絶世の美女だったと言われる。岩村城主遠山景任(かげとう)と結婚したのは信長が美濃を併合した直後の1967,8年頃のこと。むろん信長による政略結婚の道具とされたのである。同じ目的で過去にも二度信長に使われすでに三度目の婚姻だった。

休日だが時間が早いので城を訪ねてくる人はまだいない。
おーい,走ると危ないぞー!!
…危ないのはただ一人,腰痛で足腰の弱っているボクだけである。


急成長した信長はとりあえず四方八方の隣国と和睦し停戦状態を保つ必要があった。主君も弟も邪魔者は全て殺した信長である。関係を結ぶするためにはそれこそ何でもした。もちろん和睦しても警戒は怠らない。妹の市,そして年下の叔母の艶をそれぞれ朝倉と武田に備え最前線の味方に嫁がせている。


…美貌の肉親など道具としか思っていない。政略結婚そのものは戦国の慣わしのようなものだが,信長の恐ろしさはとりあえず和睦したあと,伊勢から時計回りにことごとく当該の相手を滅ぼしていったことだ。間に立った味方や家臣,降伏していた敵の配下などに一切の斟酌をしていない。とりわけ市や艶ら女性の末路は痛ましい。


もし,国道257号をこのままどこまでも南下したとすると,いったん愛知県の北部を通る。伊那街道や別所街道と交差する交通要衝が長篠である。さらに静岡県に入り浜松市で起点に達する。その少し手前,東海道脇往還と合流して今も姫街道と呼ばれる付近を三方が原と言う。かつてこの二箇所で起こった大合戦が岩村城に嫁いだ艶の運命を翻弄した。


西暦1572年,上洛戦を発した甲斐武田軍が美濃に侵攻。艶の夫遠山景任は一族2500を率いて三河徳川軍の援軍2500とともに御岳山西麓上村でこれを迎え撃つが,武田軍東美濃方面大将秋山信友の敵ではなかった。わずか2500の秋山軍に大敗し,景任は岩村城まで退却したものの戦闘の傷が癒えずに没する。伊勢,近江と交戦中だった信長は援軍を出せず,幼い五男御坊丸を景任の後嗣として養子に送り後見する艶を岩村城主に指名した。

こうして女城主となった艶は治世にも外交にも献身的に働いたらしい。「岩村殿」「お直の方」などと呼ばれ領民にも家臣にも慕われていた。しかし敵対する武田軍の圧力は圧倒的だった。翌1573年,岩村城は秋山軍に囲まれ,遂に家臣や御坊丸そして篭城した領民の助命と引き換えに開城のやむなきに至った。このとき秋山信友の出した条件が前代未聞であった。

艶との婚姻である。

確かに稀代の美貌と知性は魅力だったに違いないが,東海道への進出を急ぐ信友としては,それよりも家臣,領民に慕われる艶の人気を利用して,征服地の謀反を予防したかったのだろう。命の助かった幼子御坊丸は甲府に送られた。 対信玄戦において,岩村城を最重要拠点と見抜いていた信長は激怒したが,艶の責任を追及するのは酷であろう。信長にとっては重要拠点に過ぎないが遠山家には生身の家臣も領民もいる。わけても山崩のように濃尾平野を襲うは甲斐武田軍である。通常は攻略に数ヶ月もかかる小城が三日にひとつのペースで呑み込まれていく。


乾坤一擲,三方が原に鶴翼の陣を敷いて総力戦を挑んだ徳川軍ですら,本陣が数騎になるほど完膚なきまで壊滅され単騎浜松城に逃げた家康は恐怖のあまり馬上で脱糞していたと伝えられている。弱兵を率いた山城の女城主が抗うすべなどない。



初秋の山の清々しい空気に,妻が愛犬と追いかけっこを始めた。二人の追いかけっこはいつのまにか攻守が入れ替わってどちらが鬼だかわからなくなる。

 

上洛を目前にして信玄が死んだ。


1575年,武田軍が長篠の戦いに敗れて形勢は一変した。美濃で孤立した岩村城は,遠山秋山一族と家臣の助命を条件に19才の美濃国主織田信忠に降伏する。3万の大群で城を包囲した攻城軍の信忠や滝川一益が,5ヶ月近い籠城で飢餓状態にあった岩村城に兵糧を送って開城を促したからだ。信忠は当然,縁者である信友と艶の夫妻をも助命するつもりでいただろう。ところが開城後に後詰の岐阜城からやってきた信長は約束を全て反故にし,助命受け入れのお礼に来た秋山夫妻を捕え逆さ磔にしてなぶり殺した。城を出た一族,家臣もことごとくだまし討ちに遭い,女子どもまで皆殺しにされた。

岩村城跡を下ってくる道に大将陣の看板があった。

「あっちは行かなくていいの?」

…と,妻が聞く。

うん,いいんだ。そろそろ峠に向かわないと遅くなる。

大将陣は攻城軍の本陣で信長が信友と艶を処刑した場所だと言われている。城巡りはあくまでボクの趣味である。女城主の悲話を知らず愛犬と初秋の古城ハイキングを楽しむ妻に,あえて凄惨な歴史を伝える必要はない。


磔とは十字に縛り付けた罪人の両脇を長柄でわざと急所を外して何度も突き、なぶり殺すことだと聞いている。それをさらに逆さに磔(さ)くとはいかなる残酷さであろう。艶は信長の政略の道具にされただけで女傑でも女丈夫でもない。幼馴染の信長を恨み,泣き叫びながら果てたという。艶と信友の夫婦仲はとてもよく、僅かな結婚期間は幸福だったと地元では語り継がれている。


自らも槍を受けながら,最愛の妻の最期を横目で見た信友の心情もまたいかばかりであったろう。

呪わしいほどの自己愛と自己顕示欲を持った信長は戦国時代が生んだ化け物だ。この人格欠損者を戦国の勝利者としてしまったのは,その合理主義に己の命運を賭して集まった秀吉,光秀,村重,家康らの才能である。そしてそのほとんどが使い捨てのように粛清されたり迫害されたりしている。献身的に仕えた家康ですら,妻と子を謀反の疑いで処刑するよう命じられそれに従った。

小説やドラマばかりか教科書までがヒーローのように扱っている信長の評価をボクたちはそろそろ変えなければならない。岩村城を訪れた人は誰でもそう思うだろう。


濃州岩村城。

悲劇を覆ってか平素霧が濃く別名を霧ヶ城。仲睦まじかった艶と信友の間には一子があったという異説あり。同情した攻城軍の将によって密かに救出されて落ち延び、小早川隆景の侍大将として関が原の戦いで奮戦したとも,遠山家を再興し,江戸南町奉行遠山金四郎の遠祖になったとも言われる。