江戸城

別名千代田城


城郭構造:輪郭式平城
公式HP:環境省特別城跡江戸城
年代: 1221年~  主な城主: 太田道灌,徳川家康
所在地:東京都千代田区千代田1−1
訪問日:2014年4月
駐車場情報:北の丸公園駐車場

遺構満足度:★★★★  犬連れ快適度:★★★


日曜の朝,駐車場はもう7割方埋まっている。花の美しい季節,風は初夏の爽やかさ。


代官町通りに出ると石垣土塁の先に北桔橋門が見える。北の丸から本丸への北口にあたり,かつては強固な升形門だったそうだ。桔(はね)橋の名の由来はご覧の通り。土塁から門への橋が跳ね橋であったことから。堀は深くこの橋を跳ね上げられれば渡るのはほぼ不可能である。

今では5車線もある代官町通りの一部となっている竹橋。ここにはかつて1620(元和6)年に、東北の諸大名によって造られた竹橋門の枡形があった。また門外にあたる東詰め,現在毎日新聞本社ビルのあるあたりには竹橋御殿と呼ばれる屋敷があり,二度目の夫本多忠刻を喪い出家して天樹院と号した千姫が長く居住した。


濠伝いに東へ歩くと江戸築城の碑がある。太田道灌の没後450年に1936(昭和11)年建立。江戸城内にあった石材が使われているそうだが碑文は表面の風化が激しくて判読が難しい。


攻城団というサイトに全文が掲載されていたので転載させていただいた。

太田道灌公追慕之碑
寛正五年春江戸ノ城将太田道灌公カ上洛参朝ノ際居城ニ就キ勅問ニ奉答シタルノ歌ニ我庵は松原つつき海ちかく富士の高嶺を軒端よそ見るノ一首アリ城ハ東ニ川ヲ帯ビ南ハ海ニ臨ミ西ハ丘陵起伏シテ遥ニ富士ノ秀峰ヲ仰ク歌ハ誠ニ能ク其ノ景勝要害ヲ盡クセリ公名ハ持資関東管領上杉定正ノ重臣タリ幼ニシテ聰邁尊王ノ志ニ篤ク文武ノ道ニ通シ兵馬ノ技ニ精シク築城ノ術ニ長セリ長禄元年城ヲ江戸氏ノ館址ニ築キテ百代名城ノ基ヲ創メタリ爾来此ニ居ルコト三十年能ク主家ヲ扶ケテ英名大ニ振ヒ八州ノ群豪風ヲ望ンデ來リ従ウ常ニ力ヲ民治ニ效シ文事ヲ奨メ徳化四周ニ普ク遠近ノ士庶陸続トシテ來往シ店舗軒ヲ連ネ船舶河口ニ集ル文明十八年公ハ讒ニ遭ヒテ相州糟屋ノ主家ニ斃レタリト雖其ノ城池ハ依然トシテ関東第一ノ形勝タリ徳川氏ノ覇府ヲ経テ明治ノ聖代ニ及ヒ畏クモ 皇居ヲ此ニ奠メラレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ日ニ月ニ殷賑ヲ加ヘ今ヤ世界第二ノ大都市トナレリ是レ実ニ端ヲ公ノ築城ニ發シタルモノニシテ千古不朽ノ功業ナリト謂ウヘシ茲ニ公ノ四百五十年祭ヲ行ウニ方リ碑ヲ旧城ノ邊ニ建テ市民ノ永ク遺徳ヲ追頌スルヲ資セントス
昭和十一年七月二十六日 東京市長 牛塚虎太郎


竹橋のたもと濠に下りられる階段がついていて水際で涼むことができる。皇居を回るランナーやサイクリストがたくさん休憩していた。


平川橋
今は犬が渡ると叱られる。犬公方の時代は過ぎて現在の城主は犬がお嫌いのようだ。

濠は大手濠となる。正面は気象庁。


大手濠端,八重桜が美しい。


大手濠二の丸石垣。

今日は一周せずに三の丸の石垣を臨むところで竹橋に引き返し北に歩く。


一ツ橋



首都高速環状線の下に外堀と一ツ橋門の石垣が残る。一ツ橋徳川家の屋敷跡は丸紅本社ビルになっている。



江戸の史跡の破壊は官軍と言う名の文化的野蛮人たちの侵入に始まり,関東大震災,東京大空襲で進んだ。そして決定的な修復不可能状態は東京オリンピックに向けた突貫工事がもたらした。


ザルツブルグもニュルンベルクも戦争で廃墟になったが城や市街地は市民によって復旧された。もし東京の戦後開発がドイツやオーストリアなみに知的な人々によってなされたならば,日本橋や一ツ橋の上に高速道路が通ることはなかっただろう。江戸城の遺跡と濠が復旧されれば東京は世界屈指の観光都市になっていたに違いない。


雉子橋門石垣跡


美しい清水濠


清水門 北の丸の南口。ここで江戸城探訪を終える。

濠端に栴檀が美しく咲く。八重桜とはいささか季節がずれている。一ツ橋周辺と北桔橋門の写真は2020年5月の追加取材で撮影した。愛犬はもういない。