2011/10

「なあ,やっぱり一緒に行こうよ。」
「何言ってるのよ,オレは花電車撮りに行くから,お前は久しぶりに友だち誘ってランチでもして来いって言ったのはシュウじゃない。」

事実である。

ボクは一人で撮影に行くことは決してない。必ず妻か愛犬を同伴するのをポリシーにしているのだが,さすがに都内で路面電車を待つのに付き合わせるのは不憫だと思って調子のよいことを言ったのである。妻は降って湧いたような幸運に喜び,無沙汰している親友たちに集合をかけてしまった。10日も前のことである。今更,キャンセルするわけにはいかない。

「やだよ,やだよ,一人で行くのはやだよぉ。」
「困ったわねえ。」

そもそもが小心者でカメラマンが大勢集まるような雰囲気が大の苦手なのである。花電車とは都営交通の創業100周年を記念して東京都交通局が都営荒川線に走らせる化粧車両である。33年ぶりの復活イベントとあってファンの期待は高く連日大勢のカメラマンが集まっている。

「そうだ!車に乗せて犬も連れて行こう。夫婦で散歩してるときに,偶然花電車に出くわしちゃって,それじゃ,まあちょっと撮っていくかっていうシチュエーションが欲しいんだよ。」
「…その設定,ムリがあると思う。犬の散歩にあんな大きなカメラ持って行く人いないもん。」

↓想像図
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「やめた。」
「え?」
「一人でなら行かない。」
「そんな子どもみたいなこと言わないの。急いで帰ってきて今夜はカレーにするから。」
「…グリコの?」
「そう,こないだ買ってみたゼッピン辛口」

カレーで釣られた。

出掛けてみればさほどのプレッシャーでもない。2週間くらい前,通勤帰りに下見しておいた歩道橋に陣取った。待つほどにあたりには見る見る「撮り鉄」の数が増えてくる。夕景夜景の中で最終の花電車を狙おうとするくらいだから,そのくらいのツワモノばかりではある。が,本当に上手な人はこんな誰でも撮れるものは撮らない。

「鉄」たちはなべて寡黙である。歩道橋は静まりかえっている。こういう場所で最初に沈黙を破るのはいつもボクだ。

「そろそろ荒川車庫前を出た頃ですか。わくわくしますね。」

たった一言である。となりの若い鉄に話しかける。それだけで,ボクの回りだけが突然におしゃべりでにぎやかになる。きっかけさえあれば,しゃべりたくてうずうずしている人は必ずいるものである。ニコンの135mm f/2を三脚に載せた髪の毛のずいぶんと薄い鉄が堰を切ったようにしゃべり出した。バッグの中からストレージが出てきて,同じ場所で撮った先週の写真,昼間に撮った写真などがモニターで披露される。

そのうちに話はもう紀勢線だとか常総線のキハなんとかだとかに飛んでいる。若鉄たちがまた上手なのである。そつなく,へぇとかはぁとか感心したり,恐れ入ったりするものだから禿鉄氏の講釈も止まらない。

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ボクはと言えば場の空気さえ和めばよいわけで,できた若者たちに後を任せて黙ったまま空を見上げた。さっきまでまぶしいほどだった快晴の空が急速に暗くなってゆく。あわよくば夕焼け空を花電車に合わせようと思っていたもくろみは外れたようだ。昨日,今日と夏のように暑かったので夕風が心地よい。

浅田次郎さんの「霞町物語」に登場する老写真師伊能夢影は浅田さんの祖父がモデルらしい。作中,彼が青山の交差点で廃線記念を走る花電車を撮るくだり(青い火花)は圧巻だった。撮り鉄でないボクが花電車などを撮ろうと思いたったのは,ほぼ100%この小説の影響である。

いっち ねー さん!!

怪しげな号令一下,夢影のライカと弟子である婿の新型ペンタックスがストロボを同時に焚く。知り合いの運転士が操縦する花電車が雨模様の交差点を通過しながら青い火花をあげる。…まるで夢のように美しい光景が描写されていた。

「ドライバーの目に入ると危険なので,ストロボは禁止でーす。」

要所要所に配備された警備員が撮り鉄たちに注意を促してゆく。俄に緊張が走る。もちろん歩道橋からはストロボを使える距離ではない。禿鉄氏が

「ISO400で1/40かな。」

と,135mm f/2と同じ設定を回りにも薦めるが,さすがに若者たちもそれは聞いていない。思い思いに自分の設定を確かめている。ボクは50Lを外して70-200mmを選んだ。設定は禿鉄氏とは真逆のISO3200,1/200 Tv-1/3。…f/1.2の50Lですらぎりぎりの数値である。望遠ズームのf/2.8では露出アンダーになるのは明らかだが花電車は一発勝負。何が起こるかわからないからズームレンズを高速シャッターで手持ちするのが安全策だと考えたのだ。

「来た!」

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何度も普通車両を試し撮りした坂道に白く輝く花電車が姿を現した。周囲でいちばん長モノを選んでいたボクのレンズが最初にUSMを作動させた。ファインダーに表示されたF2.8の数字がフラッシングしてアンダーを警告する。一瞬,人差し指が反応しそうになったがこらえた。

ままよ!!

連写をかける。ボクの露出はPC上で決める(笑)空を入れる。軌道の反射を入れる。シミュレーションしておいた通りに構図を変えてシャッターを切る。標準ズームの射程に入って,手持ち組のカメラが一斉に連写音を響かせた。

そしていよいよ花電車は歩道橋をくぐり,三脚がぐるりと狙う交差点の晴舞台におどり込んだ。ボクも素早く反転して構えた。そのときだった。

歩道橋がまるで地震のように上下に揺れ始めた。数人のカメラマンが場所を変えようとして一斉に走り出したからだ。共振してますます揺れは激しくなる。満を持して切り始めた禿鉄氏のニコンはセンサーに1/40秒の光のタテ縞を記録していることだろう。さらに三脚を使っている鉄たちから嘆息や舌打ちが聞こえた。三脚は架線が写りこむのを避けるために,みな低い位置に固定されていた。運悪く交差点に取り残されたワゴン車が被写体にかぶってしまったのだ。

ボクは興奮を抑えながら,架線が作る方形のマスの中に可憐な花の姿を捕らえた。

私鉄の駅からの家路をボクは一歩ずつ慎重に歩いた。機材の重さと立って花電車を待った時間が持病の腰に負担をかけていた。だけどその痛みとはうらはらに気分はとてもよかった。家のドアを開けると,カレーの匂いが鼻腔をくすぐった。妻が冷凍庫から氷のように冷やした陶器のジョッキを出し,それに缶の黒ラベルを注ぎながら土産話を促してくる。

「どうだった?」

妻が鉄道写真に興味を持っているとはとうてい思えない。きっと高校の同級生たちとのランチがよほど楽しかったのだろう。ボクの撮影行がもし楽しくなかったとしたら後ろめたい思いなのだ。

ボクはうんと面白おかしく鉄たちの様子を話し,それから彼女の同級生たちの近況を聞いた。休日の主役の座を奪われた愛犬が床に伏せたまま長いあくびをした。なべて世は事もなし。


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