2013/4

タクシーは,指示通り湾岸高速の高架下に止まった。 マンハッタン島の最南端近く,あたりには人っ子一人いない。運転席からはみ出しそうな体格のアフリカ系のドライバーが心配そうに言った。

「危なくないか?こんなところで客を降ろしたのは,ここ10年で初めてだよ。」
「ありがとう。気をつけるよ。」

ボクはわずかなお釣の受け取りを断りながらそう答えた。 悪漢に襲われたらカーボン製の三脚を振り回そうと思う。 それでもかなわないときは観念するしかない。

「Good luck(じゃ)!」

笑顔を作ったドライバーの白目と歯だけが暗い車内に光った。


ドレミは薄手のジャケットのフードをすっぽりとかぶりポケットに手を入れて前を歩き始めた。 春とはいえ海を渡る風は冷たい。ボクは三脚を抱えている手が凍えないように準備してきた軍手をした。 金網やコンクリートの壁の切れ目からときどきイーストリバーの岸に出ては対岸の灯りを撮影した。 対岸はブルックリンの中心部だがニューヨークの灯りも以前ほど賑やかではない。 アメリカ経済にも翳りが見えるし,さすがにエコロジーに対する意識も高くなってきているからだ。 まばゆいほどの夜景を撮りたいならまだ電飾が富のシンボルになっているアジアの大国か中東にでも行くべきだろう。

ひっそりと静まり返る深夜の魚河岸をつっきってシーポートまで来ると開いている居酒屋もちらほらと現れる。 ジョガーや酔い覚ましの散歩をする人ともたまに行き交うようになった。 営業時間はとっくに過ぎていたがシーポートのデッキに上がる階段がまだ閉まってなかった。

「ラッキー♪」

3階のデッキからはブルックリンブリッジが17mmの画角にすっぽりと収まる。思えばこのときにブルックリンブリッジの異常に気づくべきだった。

シーポートを出たボクたちはブルックリンブリッジのほぼ真下まで北上し,そこから今度は川を背にして西にひたすら歩いた。 マンハッタン島にかかる橋はどれも巨大すぎるので,その袂は岸から2ブロック以上も内陸にある。夜になっても車の交通量が全く衰えない橋の上とは対照的に,鉄筋の橋げたの下は倉庫街ということもあってひっそりと暗い。 しかも大規模な工事中で歩きにくい。ニューヨークは古い建物が多いので,年中あちこち大規模工事中だから仕方ない。

三脚を担いで歩くボクの後ろをドレミは唇を紫色にしながら黙ってとぼとぼとついてくる。 彼女は夜中にわざわざ徒歩でブルックリンブリッジに来るほどの用は何もない。 強いて言えばときどき「そこに立って」と言われて点景になる役目がある程度だ。 ちょうど街の中をショッピングして歩いているときと二人の立場は逆になっている。 それならばお店と橋と別々に出かければいいのにと誰もが思うだろう。そうはいかないのがボクたち夫婦である。ボクたちは一緒の時間を過ごすために夫婦になった。

袂の手前で橋の上に登る階段を見つけたがビルの3階分くらいはゆうにある。 えっちらおっちらとそれを登り,ときどき振り返って袂の方向を撮影しながら今度は東に橋を渡ってゆく。 岸から500mほども歩いて来たのだから,また500m戻る道理だ。 川の上まで行くためにはさらに400mを歩く。 もちろん行ったら帰らねばならないから,1往復半2.5キロ余り。 カメラバッグに三脚を抱えては小1時間の撮影行になる。

横殴りの風の中,イーストリバーの中央部までたどり着いた。 マンハッタンの夜景スポットで世界一美しいと言われる夜のブルックリンブリッジにボクはついに三脚を据えたのだ。 勇躍ファインダーを覗いて呆然とした。

「な,なんだ!これは!」

橋の横梁…ちょうど美しい幾何学模様を描くロープが編まれている鉄骨がすべて白いビニールシートで覆われているではないか!! なんと大規模工事中だったのはブルックリンブリッジ自体だったのだ。

何枚か切ってみたが,白々とビニールが光ってどうにも無粋である。 橋の途中でかかってきた電話に出ていたために遅れていたドレミが追いついてきた。 すっぽりフードの上からさらに薄いマフラーをマチコ巻きにし,にっこり笑いながら言った。

「あははは。包帯したミイラみたいでまたイッキョーじゃない。」

…ぜんぜん,励ましになっていない。 三脚を持ってこの場所に立つことがもう二度とあるとは思えない。

ボクはがっくりと肩を落とした。 すっかり人通りも途絶えたブルックリンブリッジを二人は地下鉄の駅に向かってとぼとぼと歩き出した。

「ねえ,リードアンドブロードウエイのスタバがまだ開いてると思うからこのままステイ先まで歩いて帰らない?」
「そうするか。」

温かいコーヒーをすするところを想像しながら二人は少し急ぎ足に歩き始めた。

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