人が携帯電話に出ないとやはり少し苛立つ。自分も人に同じような不快を与えていることに思い至った。ボクは携帯というツールが好きではない。
ボクの職場は駅に近いので,夕方ともなると,前の歩道を家路に向かう老若男女が大勢通る。その誰もが例外なく携帯電話を手にしている。歩きながら皆誰かに電話している。イヤホンをして,空中に向かって大声でしゃべっている人もいる。あるいは顔の前に携帯を掲げ,寄り目で一心にメールを書きながら行進してくる人も一人二人ではない。その姿を見ていると,時々この街から逃げ出したくなる。
だが,それは個人的な好悪である。きちんとした社会人としては,携帯電話は常に身近に置き,いつも出ないといけない。携帯は持たないとか,持っていても使わないとか,もはやそれは主義とかポリシーとして通用する時代ではなくなった。
メールには絵文字を入れなければならない。
「先生,何で怒ってるんですか?ヽ(^◇^;)ノ」
「怒ってない。」
「ごめんなさい。m(。_。;)m」
「だから怒ってないって。」
先日,ある子とのメールのやり取りである。
今どき,文字だけのメールは「怒ってる」とか「いやいや書いてる」という意思表示になってしまう。絵文字をつけるのは文章力の敗北だとか考えるのはナンセンスである。そもそもメールは文書だが文章ではないらしい。拝啓敬具をつけるべきか悩むのも愚かである。メールは手紙でもない。会話に近いデジタルコミュニケーションである。親しい間でも,手紙なら「前略おふくろお元気ですか。」もありだが,会話で親子や友だちに前略するバカはない。ならば絵文字を添えて,柔らかく温かくするのは礼儀である。そう,絵文字はデジタル日本語には不可欠な配慮表現なのである。
以上を一気に悟ったボクは早速以下のことを決めた。
・携帯で電話をかける。
・携帯で電話を受ける。
・メールには絵文字をつける。
裏を返せば今までこれをしていなかったわけだ。
早速,先週から友人などに絵文字入りのメールを送り出した。内心,ボクが狂ったと思われるのではないかとビクビクしたが杞憂であった。友人たちからは何事もなかったかのようにふつうの返信が届いた。絵文字入りのメールはそれくらい「フツウ」なのだろう。
絵文字は礼儀である。
さて電話。発信履歴…母,母,母,ドレミ,母,母,母…数十件ほどで日付が携帯電話を新調した8月になっている。着信履歴の方はこれに家電話が何度か混じる。自分で自分の携帯電話に電話して,音をたよりにどこにあるのか探したあとだ。もはや誰もボクに連絡を取るために携帯に電話しようとする人はいない。当然のことだがこれはキチンとした社会人の持つ電話の履歴とは言えない。
変革の時は来たれり。
とりあえず会社に電話してみよう。先に出勤したドレミに用があるのだ。ところが最近,履歴からしか発信したことがないから,電話番号の探し方がわからない。なーに,電話ではないか。番号を回せばつながる道理だ。
えっと,03-58**-53**…
しーん。
あれ?あ,発信ボタンね,はいはい,ぽちっ!
しーん。
あらら。液晶には次のように表示されていて,選ばなくてはならない。
・音声電話
・テレビ電話
・Cメール
・特番付加
なんだよ,特番とかテレビ電話って。ふつうの電話は音声電話って言うのかな。
選んでぽちっ!
しーん。
ありゃ?…次の選択肢はこれだった。
・日本へ発信
・そのまま発信
これはかなりの難問である。ボクとしては「このまま日本に発信」したいのだが,どちらかを選ばねばならないらしい。勝負だ。
このままを選びぽちっ!…あ,どうやら無事に発信したらしいぞ。
よかったよかった…って,ふざけんなー!
どうして電話で電話するのにこんな手間がかかるんだよ!偶然この日会った甥っ子に話すと教えてくれた。
「ああ,受話器マークのボタンを押せば,ダイレクトに発信しますよ。」
「お前,メーカーが違うのに何故そんなこと知ってんだよ!」
どうせ四六時中いじり回してるに違いないのだ。
携帯電話を使いこなす道は遠い。ボクはあっさりとギブアップし,「正しく携帯電話を使おうマイブーム」は去った。
昨日などはまたしても職場に忘れて帰ってしまった。たまたま母が大事な用で連絡を取ろうとしたらしい。今朝,ドレミに連絡があり,
「shuの携帯はメールも電話もすぐに繋がったためしがない。」
と,たいへんな剣幕だったらしい。この調子ではいよいよボクのケータイの最後の利用者もいなくなりそうである。
ちなみにこの文,絵文字がひとつもないが,怒って書いているわけではなく,おもしろおかしく書いているつもりなのである。