オークスと花束

Apr, 2010

叔母の49日も過ぎた日曜日,ボクたちは90才になる伯父を訪ねた。2年半前に旅先の松江で交わした約束を果たすためである。


それは親戚や母の友だちなど10数人をマイクロバスに乗せて山陰を巡るツアーの初日のこと,徹夜で高速道800kmを走破し石見銀山を見物するという強行軍だった。平均年令の極めて高い一行の疲れを慮り,主催者のボクたちは簡単な夕食付きのホテルを松江市内に予約してあった。疲れた人には早目に休んでもらい,宍道湖八珍を楽しみたいツワモノだけで街に繰り出しましょうという企画である。



松江の街が近づいたとき,ドレミがマイクでオプションへの参加者を募った。すると,ただ一人,単身でツアーに初参加していた最高齢の伯父だけが元気よく手を挙げたのだった。ボクたちに居酒屋選びを任された伯父は当時すでに88才だったが,昼の見物の疲れも見せずに地下道の階段などもずんずんと歩き3人だけのオプションツアーを先導した。

伯父の酒は陽気で楽しい酒だった。ボクが物心ついた頃からもうスキンヘッドで,額と目尻は布袋さまのような笑い皺に囲まれている。笑顔しか記憶にない。歴史小説の話で大いに意気投合したドレミと肩を組みながら松江の町を闊歩した。そして

「また,いつか飲みましょう。」

と約束した。伯父もよほど楽しかったのだろう,ことあるごとにその夜の話をしていたそうだ。

今年の冬に叔母が亡くなり,残された伯父は葬儀の席でも気丈に振る舞っていた。弔問客にも笑顔を絶やさない。その姿を見たボクとドレミはどちらからともなく伯父とのあの約束を果たそうと決めた。

伯父は毎週末テレビで競馬を楽しんでいる。それに1日付き合い,ウチで飲みながら観戦しようという計画である。折しもG1第71回オークス開催日,ボクたちは車で伯父を迎えに行った。伯父は一週間も前に四ツ谷の老舗まで行って地酒を買い求め,楽しみにボクらを待っていた。


茶の間でオークスの予想が始まった。ドレミは馬券を買うことはもちろん,馬柱を見るのも初めてだった。伯父が懇切丁寧にシステムや予想データを説明し,桜花賞を制したアパパネを中心に有力馬3頭を薦める。ドレミはその3頭を馬連で巴買いすることに決め,自分でカードをマークした。



叔父自身は重馬場による波乱を予想し,前走フローラステークスでサンテミリオンの2着に逃げ残ったアグネスワルツを軸に選んだ。一方,前夜こっそり弟に電話して予想を聞いたボクはオーケンサクラから有力馬に流したが,博打はからっきし弱いので当たるとは思っていない。馬券を買うのも十年ぶりだ。



「伯父さん,当たった人が今日のごちそう代を持つんですよ。」
「いいとも」

三者三様の予想をカードに記入して,ボクたちは錦糸町の場外で馬券を買った。

 


ごちそうはJRAの並びにある魚寅の魚である。

 

伯父は角の花屋でバラを二束買い一つを「ドレミさんに」と手渡した。もう一束は誰に買ったのだろう。ボクでないことは確かだ。


家に着くとまもなく中継放送が始まった。伯父の持参した地酒はすっきりと梨のようにフルーティーな香りがした。ボクはそれを舐めながら伯父のパドック解説を拝聴する。マスクから覗くオーケンサクラの目はおどおどと,まるでシャンプー前のタローのように緊張している。こりゃあ,やっぱりボクの馬券はダメだな。伯父は酒が入って一段とにこにこ上機嫌になり口も滑らかだ。井崎さんが画面に登場すると

「この人の予想は当ったらないんだよー」

と愉しげに言う。声は高い。

「おりゃ!」

井崎さんが推すのは伯父の買ったアグネスワルツだった。声もなく画面に呆然と見入る。ドレミはそんな反応を見るだけでもう身をよじって笑いをこらえている。おかげで空豆は少々茹ですぎになった。

カンパチと油ののったブリの刺身,貝とワカメと白葱のぬた,朝からドレミが仕込んだ肉じゃが,冷や奴…食卓に並び始めたごちそうが杯を誘う。画面では返し馬を終えた出走馬が雨に煙る東京2400mのゲートに集まり始める。

旗手を乗せたゴンドラが上昇し,赤旗が掲げられる。ファンファーレが響く。コース上では白旗が振られ,傘に埋まった観客席から歓声が上がる。ゲートインをむずかる癖のあるアパパネが最初に導かれると,あとは粛々と選び抜かれた3才優駿牝馬18頭がゲートに並んだ。

レースは捨て身の逃げを打ったニーマルオトメが飛び出したおかげで,アグネスワルツはかかることなく絶好の位置をキープした。しかし,集団に大外枠から難なく取り付いていた皐月の女王アパパネの敵ではなかった。4コーナーを回り直線を向くと,外から一気にアパパネが先頭に立った。


蝦名騎手の唯一の誤算は前日にBコースが採用になり,荒れた内だちが1m使われなくなっていたことだ。先にコンディションの良い内側から抜け出していたサンテミリオンが末脚を残し,ついにG1史上初の同着優勝となった。アグネスワルツは3着に粘り,スタートから馬群にもまれていたオーケンサクラは5着に敗れた。

 

当たり馬券はドレミが選んだ巴の輪の中にあった。典型的なビギナーズラックである。暫くきょとんとしていたドレミは500円が1万円になったと聞いてようやく大喜びした。

「じゃあ,お刺身はあたしの奢りね。うふうふうふん。」

伯父はにこにこ顔にちょっぴり悔しさを浮かべながらアグネスワルツの健闘を讃えた。

「わたしの目は間違ってなかった。」

いいとこなしだったボクは面白くないので天才料理に熱中した。青柳とミツバの天ぷらにわさびと海苔を効かせた貝の混ぜご飯は最近の得意メニューだ。

口当たりのよい冷酒はぐいぐいと進み,3人とも目が渦巻きになってきた。母からかかってきた電話に伯父が陽気な声で

「ごちそうになっていて,もうへべれけです。」

と応えてから,母にまでアグネスワルツの惜敗を語った。ボクはなるほどこれを「へべれけ」と言うのかと感心していた。母はドレミに輪をかけて競馬音痴なのでわかるはずもない。

3着に散ったアグネスワルツは酒席の話題では主役だった。確か松江では明智光秀だった。酔っぱらい話の流れで光秀は10回以上も山崎の戦いに赴いた。今日はアグネスである。水産会社に勤めていた伯父は自ら見立てたカンパチに舌鼓を打つ。本当はこの時期,江戸っ子はカツオであるが今年は水揚げがない。東シナ海での外国船による底引き網漁を嘆く。

「政府が早く対応しないと,近く大問題になりますよ。」

元専門家としては産卵場所での乱獲を黙っていられない。話が重くなってきたところでボクが混ぜっかえす。

「しかし伯父さん,2番(アグネスワルツ)はよく来ましたねえ。」
「そう!よく粘った。ワタシの目は確かだった。」

満足げに杯を干すとカンパチを一切れ。そしてまたカツオを憂える。ドレミはもう目を白黒させ,胸を押さえて「伯父さん,やばい。」と苦しげにつぶやきながら大受けしている。かれこれ10数回もアグネスワルツが府中の直線を逃げた頃,従兄が車で迎えに来た。

「今日はホントにありがとうございました。オヤジがこんなに楽しそうに飲んでるのを見るのは久しぶりだよ。」

彼を始め,家族は誰も飲まないので伯父の晩酌相手はいない。伯母が亡くなってからはいつも自分で料理をし,ひとりでビールの栓を抜いているそうだ。

「こちらこそ楽しませてもらいました。」

本音である。ドレミが涙を流すほど笑うことはなかなかない。酔っ払い三人がふらふらと玄関に出た。


「そうだ。花を忘れるところだった。」

従兄がバラを手渡されながら聞いた。

「オヤジ,どうするんだ,これ。」
「一つはドレミが頂きました。」


「もう一つは…」

と伯父が靴べらを使いながら言う。

「ワタシの大事な人に買ったんだよ。」

ボクも従兄も見当がつかずに目を見合わせた。最初にドレミが気づいた。

「わかった,愛するカズコちゃんにね。」

伯父はにっこりとわらって照れているようだったが,もともと酔っ払って頭まで真っ赤なのでよくわからない。カズコというのは亡くなった伯母の名だ。ボクと従兄は改めて目を見合わせた。傍目には,自由闊達でわがままだった伯母の尻に敷かれっぱなしのように見えていた伯父なのである。従兄とボクの驚きも必然と言えよう。

雨の中で伯父を乗せた車が見えなくなるまで見送ったドレミは,急に酔いが回り,その後二時間ほどの記憶をなくしていた。

へべれけである。

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