へびを救う

Aug, 2007

八ヶ岳にある秘密の湖で犬を遊ばせた帰り道,川岸に真新しい投網が捨てられているのを見かけた。そして網から長い蛇の尻尾がのぞいていた。ドレミが悲鳴をあげ,ボクは逃げ腰で20Dを構える。普通ならばそれで終わるところだが,ファインダの中に感じた違和感からこの小さな物語は始まる。

だらりとのびたまま蛇はピクリとも動かない。かと言って,体表のつやは死骸のそれではない。蛇が死んだふりをするというのも聞いたことがない。小さなつぶてを放ってみたがやはり反応がない。

「もしかしたら,網に絡まって動けないのかもしれないぞ」

投網の縁には金属の鎖がついている。恐る恐る網を持って広げてみると,果たして蛇の菱形の頭が鎌首をもたげた。愛犬タローが鼻を鳴らしながら近づく。

「ノー!」

ボクらの剣幕に驚き,タローは飛びのいて静観する体制をとった。

「ステイ!」

毒蛇かどうかはわからないが噛まれてはことだ。蛇は赤い目をせわしなく動かし,舌をちろちろと出し入れして威嚇している。首から20センチくらいのところが,網にがんじがらめになっている。もがきながらいくつも小さな網目に突っ込んでしまったらしく,何本かの糸が鱗に食い込んで見えない。80センチほどもある体は,その部分から下が太くなっていて,戻ることもできずに暴れたのだろう。

今は運命を諦めたようだ。心ない人間が放置した網は野性動物にとっては恐ろしい死の罠だ。あるいは狐やりすが同じ運命に落ちていたかも知れない。

「助けなくっちゃ」

ドレミが震える声でつぶやく。

うわあ,オレかい。無理だよぉ。爬虫類の映像見ただけで,食事が喉を通らなくなる弱虫なんだから…。

でも確かにこのままでは明日の朝には死んでしまう。

ドレミが木ぎれを拾ってきて網を解こうとした。鎖の重さがかかって食い込む糸が絞まるのだろう,蛇は頭を振って,今まで動かなかった太い尻尾をくねらせた。ボクたちは二人同時に悲鳴を上げて飛びのく。タローはさらに後ろに逃げた。ドレミの勇気には舌をまいた。蛇が落ち着いたのを見ると

「痛いでしょう。じっとしてて」

と話しかけながら,今度は手で絡んだ糸を一本一本ほぐし始めた。蛇はまるでその言葉がわかったかのように大人しくなり,されるがままにしている。しかし,何本もの糸が体に深く食い込んでいる上に,網は2m四方ほどもある頑丈なものだ。もし,ボクにもっと度胸があって,蛇を掴んで引っ張ってやれたとしても,網を外す前に体がちぎれてしまいそうだ。鋭利な鋏で網をそっと切るしかないが,もちろん鋏など持っているはずもない。ポケットを探るとライターが手に触れた。試しに網の端を指でつまんで,ライターの火を近づけると,ナイロンの糸は溶けるようにぷつりと切れた。

いけるかも知れない。

ドレミの持ち上げた糸を慎重に焼き切っていく。網のテンションが徐々に解けて,宙づりだった体が地面についたが,蛇はピクリとも動かない。

いよいよ蛇の腹に横から火を近づける。ライターを横に使うので,親指が熱いが蛇はもっと熱いだろう。ぷつっと糸が切れて,絞られていた体が弾むように元の太さを取り戻す。

あと,3本。

緊張と恐ろしさで,額から冷や汗が吹き出して地面にぽたぽた落ちる。こんな間近に蛇を見ることさえ生まれて初めてなのだ。ちらりとドレミを見たが次の糸をほぐす作業に熱中している。蛇は依然として身じろぎもしない。ドレミが黙って糸を持ち上げるのに呼吸を合わせて,またライターを点火した。

残り一本になって,体の自由を取り戻した蛇が急にうねうねと体をくねらせ始めた。

「いい子だからもうちょっとがまんね。」

…蛇と会話すんなよ。

大人しくなった「いい子」の腹に,ボクは最後の火を近づけた。

ぱらりと糸が外れて,蛇はいきなり生気を取り戻し,80センチのU字を描いて川の方へターンしていく。茂みに姿を消す刹那,気持ちよさそうに一周ぐるりととぐろを巻いた。あるいは感謝の挨拶だったのかもしれない。

「もうへんなものに首突っ込んじゃダメよー。」

川からぽちゃんと小さな水音がした。

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