三尺下がって

Dec, 2010

「ドレミ,頼みがある。アライ先生に電話して写生にお連れする日のアポ取ってくれ。」
「えー!やーよ。shuの先生じゃない。自分で電話でしなきゃあ。」
「そ,それを重々承知の上で何とか頼む!」

誰でも頭の上がらない相手がいるだろう。ボクの場合は大学時代の指導教官だったアライ先生である。先生の前に出ると,あまりの緊張からしどろもどろになって敬語や助詞を使い損なったり,右手右足から同時に歩き出したりする。だから久しぶりの電話なんて絶対に不可能である。

「仕方ないなあ。」
「すまん!一生恩に着る!」

ぷるるるる…

「あ,アライ先生,お元気ですか?ご無沙汰してます。実は…(中略)…ああ,よかった。じゃあ,7時半にお迎えに伺いまーす。」

こらこら,友だちとお出かけの約束してんじゃないんだから,もうちょっと丁寧に話せないかなあ。

「丁寧ってどんなふうに?」

先生にあらせられましては,ご機嫌麗しきご様子と拝察,お慶び申し上げ…

「あたしが誰なのかがわかったかどうかは微妙だけど,とにかく喜んでいらしたわ。」

…あ,そう。ありがとう。

そして当日。門前に車を停め,約束の5分前まで待機してから玄関に進む。ポーチの軒下には大きな蜘蛛の巣がかかり,先生がかつてモチーフにする花を育てていた庭も荒れ放題の薮になっている。呼び鈴も壊れたままガムテープが貼られているので,仕方なく声をかけてから戸を開いた。

直立不動である。

「おはようございます!先生にあらせられましては,ご,ご機嫌…」
「イマムラくん,これなんだけど。」
「ははー!!」
「キミは附属の卒業生のBくんを知ってましたかね」
「は!ご,ご,ご存知ありません!…あれ?」

後ろでドレミのため息が聞こえる。そして先生がフォローする。

「この場合は存じ上げませんですねえ…はっはは。」
「は,はー!!」

面目も唐変木もあったものではない。ボクはその謙譲語を子どもたちに教えるのが仕事なのに…。

B氏は先生が附属中学時代の教え子で,ボクは大学教授時代の教え子だからお互い知るよしもないのだが,先生にはもうあまり区別がついていない。そのB氏ら数人の附属中学卒業生たちが尽力して,今年,先生の画集が自費出版された。先生が玄関でボクに手渡そうとしたのはその画集である。もちろんボクはとっくに頂戴しているのを先生は失念してしまったのだ。

「そうでしたか。」

先生は少し困ったように笑った。

車は飯能方面に向かっている。先生は若い頃,休みになると画架を担いで西武線に乗り,車窓からポイントを見つけては下車して写生した。いわば狭山の丘陵地帯がホームグラウンドなのである。

「あの人は…」

先生が見ているのは歩道を急ぎ足で歩く初老の男性だ。

「もう何度もこの車を追い越したり,追い越されたりしてますねえ。」

月曜の朝,所沢付近は通勤渋滞が激しく,交差点近くでは徒歩と変わらないスピードでしか走れない。そんな車内からの風景が面白いらしい。

「ボクはねえ,イマムラくん…」

歩行者の背中を眺めながら先生が言った。

「ここ2年ほどの間に急速にボケが進んでしまいましてねえ。これがうっかり忘れるというのと違って,まるでその経験がなかったかのようにですね,一定期間の記憶がないわけですよ。これはどうもたいへん困ったことでして,もう一人の社会人としては全くもって失格なわけですね。」

よどみなく,自信に満ちた語り口は,教室で美術教育の講義をしていた頃と変わらない。ボクは信号をじっと見つめながら深く頷いた。その気配に先生はほっとしたようにまた歩道に興味を移した。誰にだって老いは来る。だからそれを悲しいとは思わない。だがこんなボケ方ってあるのだろうか。客観的に自己分析して,国立大学の学部長だった自らを「社会人として不適応」と判断する辛さは想像を絶する。

「例えばあすこのですね…」

所沢を過ぎても渋滞はなかなか解消しない。先生が今度は道路脇の空地を指差した。

「ちょっとした起伏だけでも十分に絵になりますねえ。向こうの雑木林もいいですね。」

誰もお供する者がなく,もう半年以上,風景画を描いていないので,先生なりにはしゃいだりじれたりしているのだ。 16号線を西に越えたところでようやく車が流れ出した。ボクとドレミは散歩している人に聞いたり,ナビゲーションの地図で川筋を追ったりして写生スポットを探す。やがて高麗から秩父に抜ける旧道の峠付近に小さな集落を探し当てて車を停めた。

口では「絵はどこでも描ける。」と,言いながら,先生はいざ決める段になると迷いに迷ってなかなか場所が決まらない。必ず大きなスケッチブックに鉛筆でデッサンしながら構図を探るのである。早く外で遊びたいタローが,場所を移動するたびにきゅうきゅうと声を絞りながら車の中で暴れている。

ドレミが先生の手をひいて行って,両手で景色をフレーミングして見せている。

「先生!!ここからいいじゃないですか。ほら,手前に柿の木を入れて。」

をい!!!何てことを!先生に構図を語るとは…!!!

ドレミの選んだ構図は,強い逆光で色味がほとんどない。全く油絵にはならないのだが,先生はにこにこ笑いながら「そうですねえ。」と言うばかりだ。昔から絵を教えるときに決してダメと言ったことがなかった。

今度はデッサンを始めた先生のスケッチブックをドレミが覗き込む。

「まあ,先生,上手ー!」

ほえー!!!ばっかもん!!上手で当たり前でないか!またまた何て失礼なことを!!

先生は鉛筆スケッチも楽しそうだ。

こらー!!タロー!!先生の構図の中を横切るんじゃない!じゃまだー!!

「イマムラくん。」
「はっ?」
「ここにしましょう。」
「は?ここですか?わ,わかりました。あ,先生は座っててください。」

さくさくさくさくさく。

「キミは何号を持ってきましたか?」
「は,8号を二枚組んで。」

事実である。下塗りして耳もキレイにカットしたキャンバスに,オイル,筆,パレットも整備して持って来ている。しかしそれを使うことは滅多にない。もう15年近くこうしてときどきお供していても,まだ学ぶことばかりだ。目の前で技術を盗むチャンスに自分で絵を描いている馬鹿はない。

「今日は勉強させてもらいます。ちょっとこの構図はボクには難しいです。」

実際この日の構図は,目の前に崖のような斜面が迫り,水平面の全くない風景で,いくら先生でもこれは無茶ではないかと思えた。ところが大胆に建物や樹木が整理された画面は,着彩に入ると正面の小さな坂道がまるで峠の茶屋に向かうような演出がなされて,見事にまとまってゆくから驚きである。

使い終わった筆はすぐにペトロールで洗う。パレットに出したい色を絵の具箱から探すのも最近はボクの仕事だ。こうしながら今回は使っている絵の具の色名をすべてメモした。ふっふっふ。盗んだぞ。今度,すべて同じ色を買って自分のパレットに並べてやろうという魂胆である。

「先生,寒くないですか。」
「きょうはあったかくて,気持ちのいい日ですねえ。」

遅いお昼も現場でおにぎりを食べる。先生とボクとでいちばん気が合うのは歴史小説の好みである。

「先生,最近のおすすめはなんでしょう。」
「それがですね,イマムラくん。ボクは最近全く読書をしていないんですね。しないというよりできない。目がですね…。」

午後になると染みるように痛むのだと言う。

「だからテレビも見ません。朝から画室に入ると,昼過ぎにはもう目を休ませます。冷やすときもある。それから家事をして…どうにもウチのがもう寝たきりなもので…」
「じゃあ,料理もされるんですか?」
「いや,ご飯はね。隣に住んでる娘が作ってます。」

目と数年前に傷めた腰の骨の状態は良くないが,内臓にはこれといって問題はなく健康なので,大好きな晩酌には支障がないそうだ。陽気で黙ってにこにこ飲む酒なので家族も公認である。

「おじいちゃんは絵を描いて,お酒を飲んでいるものと認められてるんですねえ。」

お酒の話をするだけで相好を崩している。

「じゃあ,絵を描いてお酒を飲んで…最高の毎日じゃないですか。」
「ええ,そうですね。」

画集の最初に「生涯現役」とある。

先生は絵を描き続けるために,それ以外のあらゆるものを切り捨て,ピュアでストイックな日々を送っている。

「お燗だけは自分でしますよ。どうも燗の加減だけは人には任せられませんねえ。去年,『電気お燗器』というのを買ったらこれが実にすばらしい性能でして,ぴたっと決まります。」

昼ご飯が終わるのも束の間,先生は描き途中の画面をちらちら見ながら気もそぞろになってきた。これは先生だけのことではない。絵描きは誰でも制作を中断して少し離れて画面を見ると,次々と欠点や方向性が見えてきて,おちおち休憩していられなくなるものだ。

「ここの杉の木の間は描き直しですねえ,イマムラくん。」
「はあ」

先生はきっと,すぐに今日の写生のことを忘れてしまうだろう。それでもいいのだ。先生が外に出られる限り,またお供しよう。大学生のときに受けた恩は深い。

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