アンクル・トム

Oct, 2004

もう4年前になるわけだ。妻ドレミのニューヨークに住む叔母とその夫トーマスが揃って来日した。彼らは敬虔なクリスチャンで,しかもその宗派は他に比べても,先祖を尊ぶこと尋常でない。自らのルーツをたどることは信者の義務となっていて,来日の目的は叔母の系図を辿ることだった。

叔母が遠い親戚や縁者を訪ねて歩く間,言葉のわからない叔父のトムはドレミの実家で留守番の毎日だった。もともと,本さえあれば,他に趣味や道楽はなく,放っておけば,何日でも読書しているような人だ。教義で,酒も煙草もお茶すら飲まない。好物は叔母の焼くブラウニーというお菓子で,朝夕の食事はもちろん,ときには仕事先で食べるお弁当にまで甘いそのお菓子を食べている。だから東京でも,叔母の帰りを待って,本を読んでいることに何の苦もない。しかし,ニューヨークでひとかたならぬ世話になったボクたちとしては,指をくわえて見過ごしているわけにはいかない。英会話の授業でゲスト講師をして欲しいというのを口実にし,半ば強引にアンクルトムを我が家に連れ出した。

トムが好きな本は地理と歴史,それに詩だ。ボクがニューヨークに滞在しているとき,

「shuは俳句を作るか。」

と聞かれたので

「マスター(名人)である。」

と答えたことがある。正確には「自称名人」なのだが「自称」が英訳できなかった。トムはどうやらそのヘンはわかっているようだ。

「料理も俳句もマスターなのか」

大げさに驚きながらもウインクしたあと,英訳の芭蕉の疑問点をいくつか質問した。クリスマスが近かったので,ボクは俳句の本をトムにプレゼントしようと考え,バーンズ&ノーブルに行ってみるとけっこう訳本や紹介本がある。床にしゃがみこみ,有名な芭蕉や蕪村の解釈を読み比べて,比較的正しいと思った本を選んだ。

地理の方はあまり専門的な興味ではなく,専ら大自然の写真が美しいグラビアなどを集めていてボクに見せてくれた。

「リタイヤしたら,めぐみと見物して回るのが夢だ。」

歴史の本は文字ばかりで,ボクの英語力では,興味の傾向を理解するのは無理だった。トムの話も固有名詞が聞き取れない。そもそも英語は,国名,人名などの発音・表記についてきわめて自己中心的だ。現地の文化や歴史を尊重しようとする意識がまるでないのだ。ドイツはジャーマニーだし,マジャールはハンガリー,カエサルはシーザーでヴァン・ゴッホはヴァンゴーだ。アジアに至ってはもっとひどい。チャイナ(清),コリア(高麗),ジャパン(ジパング)なんて国はもうない。トムに文句を言っても仕方ないので黙っていた。ただ,彼は古代史を中心に日本史の知識もあるようで,以前ボクたちが,ウイノーナとネイサンを奈良の石舞台古墳に連れて行ったことを感謝してくれた。

教室に案内する前にボクたちはトムを新宿御苑に連れて行った。折しも秋たけなわ,菊祭りを見物して日本庭園のあずまやに座り,トムに一句詠んでもらおうとの趣向である。30分余り心地よい静けさの中,トムの最初の句ができた。

奥入瀬や 紅葉映して 万華鏡 トーマス・ヴォーゴルマン/shu訳

お手本を見ながらトムが筆ペンで書いた色紙
確か原文もどこかにメモしてあったはずなのだが見つからない。

東京に来る前に岩手の知人を訪ね,奥入瀬渓谷や盛岡を案内してもらったそうだ。その景色と珍しいお土産品を詠んだと言う。

トムがこれを苦吟している間にボクは新宿門をいったん出て,東口地下のキヨスクに走った。彼が新聞を所望したからだ。日遅れのニューヨークタイムズは手に入らなかったが,ジャパンタイムズが買えた。車に戻ったトムはそれを食い入るように読んでいる。その日,アメリカでは大統領選挙の投開票日だったのである。

トムはビジュアル的には背がすらりと高く,青い澄んだ目を持つ二枚目だ。人当たりも非常によく,笑顔以外見たことがない。いきなり教室に連れて行ったのに,たちまち子どもたちの人気者になった。目をくりくりと動かしながら,大きな身ぶりで子どもたちの質問に答える。別れ際にはトムとツーショットで記念写真を撮りたいという子どもたちが列を作った。

帰宅するとシャワーもそこそこにトムはCNNの開票速報に飛びついた。彼はいくら勧めても湯に浸かることはしない。生まれてから一度も浸かったことがないのだ。叔母が月に一度くらい自宅の浴槽に湯を張って浸かるときは,いつだって

「めぐみが茹で上がってしまう。」

と,心配している。

開票は進み翌朝には大勢が決まった。2000年には,当時のクリントン政権を支えていたゴア副大統領と共和党のジョージWブッシュ候補が歴史的な激戦を演じたが,この年もテロと戦う強いアメリカを掲げた現職のブッシュ大統領が僅差で民主党のケリー候補を破った。

トムの落胆は見ていられないほどだった。トムに限らずニューヨークやロサンゼルスなど大都会の市民には民主党を支持している人が多い。一方,地方は共和党の支持基盤となっている。外交や経済政策など日本と関わりのある面に関して両者の違いはほとんどないので,日本では専ら候補個人の人気投票的側面ばかりが報道されて,政策に関心を寄せる人は少ない。かく言うボクもこのときまでそうだった。しかし,アメリカの二大政党は日本のそれとは比べものにならないほどはっきりと支持層が違うようだ。

すなわち,共和党は地主や資産家など資本家階級を,民主党は労働者階級をそれぞれ代表しているのである。当然ながら古き良きアメリカを求める白人は共和党を,移民やアフリカ系黒人,都市の知識人などは民主党のシンパとなる。中部地方出身のトムもおそらくは若い頃,共和党支持者だったものが,ニューヨークで暮らすうちに民主党を支持するようになったのだろう。

明けて翌日,ボクらはトムを川越に案内した。日帰りできる江戸情緒スポットとして,ボクはよく外国人を川越に連れて行く。五百羅漢を拝観していても,町を歩いてもトムは楽しそうだ。夕方には原宿で評判のとんかつに招待し,ウケねらいでお台場にある自由の女神を見せた。

その道すがらボクとドレミは,なぜトムは民主党支持なのか聞いてみた。以下はボクがトムの話から解釈・考察した内容なので,いくつか誤訳があるかもしれない。
どうやら現在,アメリカには国民皆保険の制度がない。軍隊の恩給を除いて公的年金もない。年老いた親を扶養するという習慣もない。従って人々は老後の不労所得を得るために自ら資産運用をする必要があるわけだ。そこで皆保険制度や年金制度を公約にしているのが民主党なのだ。都市部の労働者にとって社会保障制度は重要な問題だ。20世紀後半のクリントン政権時代,それは実現の一歩手前だったとトムは言う。そのリーダー的存在がヒラリー夫人らしい。だから今回,民主党大統領候補として接戦を演じた彼女の人気は決して女性だからという理由だけではないだろう。

しかるに2000年,ゴア氏の敗北によって,アメリカは社会保障の充実を目標とする国家から経済至上主義に大きく舵を切った。当時のアメリカはそれはもうたいへんな勢いだったから,国民が右肩上がりの永遠なる経済発展を期待したことはやむを得なかったかもしれない。しかし最初の4年間で,ITバブルは金融バブルになり,実体経済を離れた。9.11とそれに続く戦争に目をそらされて,誰もがその危機に気づかなかった。本来,社会保障制度こそ必要な低所得層の労働者までが不動産投資に踊らされた結果の金融危機である。


我がアングルトムはコツコツと働いて三人の子どもを育てながら,ニュージャージーに家を買った。資産というほどではないがリタイヤしたあと,妻と大自然を訪ねる旅を楽しみながら,老後を悠々と過ごすほどの蓄えはあろう。だから,ケリー候補の敗北に地団太踏んでいたのは,おそらく自らのためではなく,若い世代と国の将来を慮ってのことであろう。アメリカの市民には彼のように真面目な人も大勢いる。

再び大統領選挙が近づいた。共和党が勝つにせよ民主党が政権を奪回するにせよ彼らの,そして世界経済の代表として,民衆のための政治を願う。あいも変わらず,女性副大統領候補のファッションなどを伝えているテレビのニュースを見ながら,ふと叔父の姿を思い出した。

 

原宿のとんかつやボクらが準備した和食を,にこにこと美味しそうに食べていたトムだが,実はあまりお気に召してはいなかったようで,実家に送っていくと,さっそくめぐみ叔母が焼いておいたブラウニーをぱくついていた。

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