第6章/結婚

Jan, 2008

◆#11/秘密のポスト◆

大学生になったドレミとフリーターになったボクはもう将来を誓う仲だった。JRと私鉄が交差しているM駅。構内にある跨線橋の二番目の鉄骨がボクたちの秘密のポストだった。その裏側の凹みに,朝ドレミがJRに乗るとき手紙を置く。昼にボクがバイトで私鉄からJRに乗り換えるときそれを取って代わりに手紙を置いて行く。ドレミは夕方にその手紙を持って帰宅するのだ。

ドレミの両親の裁判,本人たちというより互いの親族によって泥沼化していた。急先鋒はかたや下町育ちの江戸っ子おばあちゃん,こなた母方の伯父兄弟はニューヨーク在住の大学教授と長いドイツ暮らしから帰った頑固なパイプオルガン技師である。そんな面々ががっぷり四つに組んでいるので話はこじれていくばかりである。ちゃきちゃきの江戸っ子とニューヨークの芸術家とドイツのマイスターが言い争って歩み寄る余地があるとは思えない。当の母親はノイローゼになり芸術家とマイスターの怒りの矛先はドレミの心を奪っているフリーターの恋人にも向けられた。電話など取り次いでもらえるはずもない。秘密のポストはそういう事情から生まれていた。

加えてドレミを苦しめたのはG大音楽科のバイオリンのレッスンだった。教授は著名な音楽家だったが人格は壊れていた。講義は一貫して下品な猥談だったのである。ドレミたち学生は赤面してうつむいたまま,ただその卑猥な話とさだまさしにバイオリンを指導したという唯一の自慢話を繰り返し聞いているだけの授業だった。今ならセクハラどころか犯罪だ。

時間が合えばボクたちは寸暇を惜しんで逢瀬を重ねた。ただ一緒にいることが目的だった。二人でいるだけで他には何もいらなかった。

そして12月に入ったある夜,ドレミは家出した。木枯らしの夜,アパートの呼び鈴が鳴る音にドアを開くとバッグを提げた彼女が立っていたのだ。こんな思いきった行動力があるとはさすがのボクも度肝を抜かれた。「卒業するまで待とう」と説得すれば家に帰すことはできたろう。だが,それでは何だか男がすたる気がした。ボクは一瞬,逡巡したが,何とか男がすたらない方を選択して彼女を部屋に上げた。エアコンの下で暖をとっているドレミの方がはるかに度胸がすわっていた。ロフトに敷いた布団に二人でくるまるときらきら光る目でこう言った。

「ねえ,いつ籍を入れてくれるの?」

◆#12/結婚指輪◆

ボクたちは一般的には認めがたいであろう結婚に向かって突っ走った。誰からのどんな説得をも突っぱね,今と変わらないあうんの呼吸で行動した。

まずボクの両親には三つ指をついて「結婚します」と挨拶した。母はもちろん驚いたが何一つ質問せず,その場でたった一言

「幸せにね」

と言った。百万の味方を得た思いのボクたちは,勇躍,区役所や大学で公的な書類を集めた。唯一の問題はドレミがまだ18才だったので,婚姻届には少なくとも両親のどちらかの同意が必要なことだった。大学教授とオルガンマイスターを先頭に親戚あげて反対している母方は絶望的なので,ボクたちは父に狙いをつけた。目的のためには手段を選ばないしたたかさだった。

離婚のショックからまだ立ち直れないでいた義父は,仕事のあとに毎夜飲み歩いていてなかなか連絡がとれず,深夜に義父が一人で暮らしているマンションを訪ねるしかなかった。ドレミとボクは久しぶりに娘に会って上機嫌の父が,一人で次々と空けていくお銚子の燗をしながら,根気よく理由を説明しとうとう夜明け頃に条件付きで許しをもらった。父の出した条件は「父の両親,すなわちドレミの祖父母の了解を得ること」そして「父の行きつけのバーでバイオリンを演奏すること」だった。

数日後,ボクたちはバイオリンケースを抱えて小雪の舞う夜の歌舞伎町を駆けていた。日曜には和菓子を手土産に祖父母の家に挨拶に行った。手ごわいと思われたその関門は江戸っ子の祖母が初めて会ったボクをとても気に入ってくれて簡単にクリアできた。こうして1月最後の大安の日,二人は区役所に婚姻届を提出して受理された。

その夜,仕事と授業を終えたボクたちは,M駅にあるあの跨線橋で待ち合わせ,駅前の商店街に行った。そして露店のアクセサリー屋で300円の指輪を買い新宿行きの急行に飛び乗った。ドレミの高校時代の友だちとボクの後輩たちが連絡を取り合って,カラオケ居酒屋の広い個室で結婚パーティーを開いてくれたのだ。チョコちゃんたちは貸し衣装でウエディングドレスも借りてきてくれていた。ボクは純白のドレスに身を包んだドレミの指に露店で買った指輪をはめた。みんなが拍手をしてボクたちは誓いのキスをした。

☆ ☆ ☆ ☆

ワンルームのアパートでままごとのような新婚生活が始まった。ドレミは在学中に姓を変え,駅前の八百屋さんには「若奥さん」と呼ばれて,ちゃっかり大根をまけてもらったりした。今でも使っている分厚い料理大百科をめくりながボクの帰りを待ち,マメにつけていたお小遣い帳の新しいページが家計簿になった。

ボクたちはほとんど持っていた全てを失って何もなかった。進子先生には教室の鍵を返した。教室でボクたちは「駆け落ちした」と専らの噂になっていた。団員とスタッフのスキャンダルは教室の評判に大きなダメージとなってしまったことだろう。横浜の学習塾には急遽,社員契約を結んでもらった。ドレミが卒業するまでまだ3年,誰にも学費や生活費をたよることはできない。1,2年アルバイトしたら自分の教室を開き,ドレミは音楽教師をしながら修行して安定したら音楽教室を暖簾わけしてもらうという計画…二人はよくデートのときなどに,この夢を語り合っていた…は,もろくも雲散霧消した。

それでも二人は楽しくて仕方なかった。アパートの床に転がりネコのようにじゃれ合った。休みの日にはポンコツのクーペにタオルを積んで海に出掛けた。 給料日前になると肉のないカレーを大鍋に作り毎日それを食べてしのいだ。

むかしむかし,ボクたちはどうしようもないほど若かった。

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