Aug.2015
2. マインフェストの花火
旅行が決まった去年の秋,妻のドレミが言った。
「せめて方面だけでも決めてよ。」
もっともな意見である。ドレミは計画魔で,あれこれと調べてはキチンと計画を立てることがとても好きだ。ボクの気まま旅には理解を示すものの彼女とて負けじと自分の楽しみを追求する。旅先でいきなり決める次の目的地も,そのほとんどには妻の調査が先回りしている。
「ベルギー北部からオランダの国境あたりに向かうことにする!」
頭にあったのは司馬遼太郎さんの「街道をゆく/オランダ紀行」である。ゴッホゆかりの地の発音を「入念」と覚えながら訪ねられていたのが印象にあった。「入念」に行ってみるか。
フランクフルトは西ヨーロッパのどこに行くにもアクセスがよいのだが,8月と言えばバカンスシーズン。何でもヨーロッパの人はみな長期休暇を取ってリゾート地へ移動するそうではないか。宿を予約しない気ままの旅には,季節人口が急増して宿泊費が高騰するリゾート地は危険だ。高いだけならまだしも,庶民が泊まれるところが軒並み満室なんて日が続くとさすがに困る。リゾート地として思いつくのは南フランスや地中海,それにバイエルン地方からスイス、オーストリアにかけての山岳地帯。ヨーロッパ全図を見ながらそれらの地域を避けていくと,自然に視線が北西方面に追いやられて行ったのだ。妻には思いつきを装っているが実は「入念」な作業の結果である。
フランクフルトは任せてよ
方面を宣言したその日から、妻は休日になると,本屋でガイドブックを買ってきては研究に勤しんだ。
とりわけ、観光することが確実なフランクフルトはホテルのネット予約も自ら担当して自信を持っている。中央駅前でガイドブックの地図をくるくる回しながら確認すると,大きなトランクを引きずりながら先に立った。
「こっちよ。」
フランクフルトの街は道路にペイントがないので,横断歩道がどこなのかよく分からない。歩行者用の信号が青になっても,ここを渡っていくのはなかなか勇気が要る。
先に立ったはいいが,妻は方向感覚がそれほどよいわけではない。自信がなくなると,
「どっち?」
…と,容赦なく聞く。ボクは妻の持つガイドブックを覗いては彼女のメンツをつぶさない程度に指示する。
車のナビをヘッドアップに設定して走れる人は方向音痴と考えてよい。それはちょうど角を曲がるたびに地図を回して歩いている人と同じだ。一方,方向感覚に優れた者は常に自分の位置を俯瞰するような視点で客観的に把握しているので,自分の向いた方向に地図を回されては困るのである。ボクは幸い人間GPSと異名を取るほどの方向感覚を持っている。努力して獲得したわけではないから自慢できるものではないが,異国で車を運転するときにはとても便利な才能だ。例えば街の小さな角を南に曲がるとき,ヨーロッパ地図上で下へ向かう自分を見下ろすようにも感じている。
ホテルが見えてきて,俄然ドレミの足取りが元気になった。初日は駅に近いエアコン完備で英語が通じそうなチェーンホテル「イビス」を選んである。
花火はありません?
チェックインのとき,ドレミは
「ねえ,花火(Fire work)はどこで上がるの?」
…と,フロントの男に聞いた。男は動揺して同僚二人に確認し,「祭りは前日の日曜に終わり,今夜は花火はない。」と,答えた。
祭りとは市の中心を東西に流れるマイン川の名を冠した「マインフェスト」で,公式HPによれば,一週間の祭りはこの日,月曜夜の花火でフィナーレを迎えるはずだ。ドレミは羽田を発つときからそれを楽しみにしていたので,花火がないと聞きとても落胆していた。
「とにかくマイン川に出てみようや。」
ボクたちは荷をほどき,シャワーを浴びてから,マイン川沿いを東に歩いてみた。花火があるとすれば時間はまだ余裕だった。フランクフルトは北緯50度…立秋近しと言えど,午後8時を過ぎて,なお日は高い。
そして,厳格でキチンとしているという印象のドイツ人が,実は日本人に比べたら,お話にならなぬほどアバウトであることは知る人ぞ知る事実である。
果たしてマインフェストはまさに最終日の賑わいだった。ボクたちの宿は曲がりなりにも観光ホテルである。そのフロントが年に一度の祭のイベントを客に尋ねられて知らないという法があるだろうか。…あるのである。それが知る人ぞ知るドイツなのである。
ビヤホールに各種アトラクション…
そして高速回転する観覧車。
これらすべてが河川敷に設けられた仮設遊園地で翌日には跡形もなく撤去される。
芝生に敷物して夕涼みする大勢の市民は明らかにフィナーレを飾る花火を待つ観客だ。
異邦人の二人は会場でのビールの買い方もわからぬまま,寝不足の体を励まし,柵に腰かけて時を待った。
マイン川にかかる大橋にも鈴なりの観客が並ぶ。ようやく辺りが暗くなってきた。
号砲
午後10時
号砲とともにマインフェストのフィナーレを飾る花火が川面を染めた。
そして20分少々,スターマインの連打と「ブラボー」の大歓声の中で終幕。ボクの知る限り最も短くて倹しい花火大会だった。白樺湖や米子で偶然出くわした無名の納涼花火大会の方がずっと盛大である。
三々五々,町に散っていく市民に混じってボクたちもホテルを目指して歩く。
キヨスクで二種類のビールを買った。強烈な旅情が二人を包む。
ラッパ飲みしながら,異国の夜の街を歩く。極度の睡眠不足で,意識はもうろうしている。