08/鎌倉前編

Oct, 2021

鶴岡八幡宮を除けば鎌倉に鎌倉時代の史跡はない。古都鎌倉は江戸時代に作られた観光都市,言わばテーマパークである。今回のツーリングで巡るのは幕府創成期に権力争いに敗れて滅ぼされた豪族たちのゆかりの地ばかりである。鎌倉時代の始まりは幕府自体にとって不都合な黒歴史なのである。


秋晴れの逗子海岸。



←おニューのリュックをアピールしてます。

ボクの調べた範囲では周辺で最安値の駐車場から鎌倉にアクセスする計画である。 


熱心に地図を確かめている。 この海岸は標高100m近い披露山の麓にあたる。源頼朝が貢物の披露会場として使ったと言い伝えられているようだが,現代は著名人の邸宅,別宅が立ち並ぶ超高級住宅街である。うっかり自転車で山に向かうとタイヘンな高低差となろう。 駐車場に隣接するように建つウインドサーフショップに「いかにも」のおじさんが開店準備をしているのが見えたので道を聞いた。


店の裏は無数のサーフボードの倉庫だった。湘南海岸には今もサザンオールスターズの歌の世界が息づいている。



首尾よく披露山の東側を回ったがそれでも8%近い勾配の丘を越えなければならない。 鎌倉は南を相模湾,他の三方を山に囲まれた地形が防御に適している。頼朝が鎌倉を本拠を選んだ理由はどんな歴史の教科書にも書いてあるので誰もが知っていることである。自転車でツーリングするとまさにそれを実感することができる。


黄色い線が今回の走行ルート↑

滑川が作った小さな三角州は,東に大崎,西に稲村ケ崎という岬が海に突き出し,その突端からU字型に山が連なる。それはまさしく城壁のように鎌倉を囲い込んでいる。

梶原井戸

梶原景時は義経を主人公にした歌舞伎,文楽,小説,ドラマでお馴染みのヒール(悪役)である。平家追討戦における義経のわがままなふるまいについて,彼があることないこと頼朝に讒言したために,頼朝は義経の討伐を決意する。景時が悪ければ悪いほど,義経,弁慶と静の悲劇が際立つわけで,それこそあることないこと悪役に仕立てられてしまった。これぞまさしく判官贔屓である。海外にもこのような例はあるのだろうが,日本人の判官贔屓は善かれ悪しかれ極端すぎる傾向にある。


悪名ばかり氾濫していて景時が鎌倉での史跡はほとんど残っていない。ボクたちが目指している梶原井戸は景時の邸があったとされる場所である。明王院の脇から胡桃山という裏山に向かう。自転車では登れないほどの坂道を行くと,道はどんどん細まってそのまま私有地となり通行止めの鎖に行く手を阻まれた。



鎖の手前から訪ないをかけたが返事はない。一本道なので間違えたとは考えにくいがいったん明王院近くの住宅街まで引き返してみた。



庭で洗車をしている女性がいたので尋ねてみると,首を傾げながらちょっと待ってとホースの水を止めてくれた。 「ばーちゃん!!梶原井戸って知ってる?」 玄関を開けて中に大声をかけた。廊下の奥からばーちゃんが現れて,確かにこの先で間違いないと教えてくれたので再び急坂を登った。



鎖の脇まで戻ると崖の茂みの中に小さな石の祠を見つけた。どうやらこれが梶原井戸らしい。


頼朝の死後、若き頼家の信頼を受けて幕府の要職を務めた景時は,頼家を排斥しようとする御家人たちと対立し,13人衆の中で孤立する。やがて諸将66人の連判による弾劾を受けて失脚,さらに謹慎中の在所一宮…今の寒川町から上洛の旅の途中,駿河で幕府軍に襲撃されて一族32人とともに殺害された。京都で倒幕の軍を編もうとした謀反の罪とされるが冤罪であろう。

実朝を立てて幕府の実権を握ろうとする北条氏の陰謀であることは様々な状況証拠から疑いない。 おそらく武芸はそこそこだが気のいい親分肌で,頼朝大好き,情にはもろく裏表のない男だったのだろう。素直な律義者で,頼朝亡き後の北条の策謀にはひとたまりもなく陥れられたに違いない。

大江広元

地図だけを見て立てた予定では、梶原井戸からさらに胡桃山を越えて大江広元の墓と伝えられる場所に出ようと思っていたが当てが外れた。道の先はたとえ私有地の鎖が張ってなくても、とても自転車では越えられそうにない深い山だったからだ。元来た道を下ることにした。金沢街道と滑川が絡み合うように走る小さな扇状地に明石橋はある。


橋の近くの道路脇に初老の女性が倒れていて,車で通りがかった女性が介抱していた。ボクたちも自転車を降りた。ドレミが携帯で119番しようとする目の前を偶然空の救急車が通過した。ボクたちのジャンピング手をふりふりに救急車が気づいて引き返して来た。若い女性は救急車にもボクたちにも深々と頭を下げて配達の仕事に戻って行った。古都であると思った。


明石橋から滑川沿いを数十メートル上流に走る。民家の敷地の隅に大江広元邸跡の碑が立っている。


大江氏は有力な豪族の中で北条氏による粛清を免れた唯一の一族と言っていい。大江広元の官位は執権をも凌ぐ正四位であったが家格も官位も年令も遥か下の義時にピタリと寄り添い補佐した。政子の命令にも決して異を唱えない。その結果,一族は栄え各地の豪族,大名の祖となった子孫も多い。山陰の雄毛利元就もその一人である。


永福寺跡

大江広元の墓と伝えられる供養塔に西側からアプローチを試みた。


Z寺の山門を過ぎそれらしき場所を見つけたが,梶原井戸方面胡桃山ハイキングコースと看板にある。どうやら供養塔は胡桃山を越える峠にあるらしい。たいした距離ではないが15分しか歩くことのできないボクの腰では無理のようだ。引き返す途中,せっかくここまで上ってきたのだからとZ寺に寄ることにした。吉田松陰にゆかりの寺という案内板に惹かれたためだ。



門に近づいたところで下馬の礼を尽くそうと自転車を降りた。引いて歩き始めたところでいきなり頭上のスピーカーから 「自転車は中に入れて!」 と強くぞんざいな言葉が降ってきた。 正しい日本語では「恐れ入りますが自転車は境内に駐車願います。」だろう。驚くドレミを促してボクは自転車の向きを変え,門を後にした。いくら観光ずれしてるとは言え,無礼を以て訪問者を遇する寺のあり様は推して知るべしである。



山を下ると永福寺跡である。



頼朝が奥州征伐の戦死者を鎮魂するために1194年に建立した。供養者の中に自ら殺めた源義経や藤原泰衡などを含んだことは意味深長である。 



市による丁寧な発掘が継続中で私見では鎌倉で最も貴重な史跡と思われる。



平泉の中尊寺二階大堂を模して作られたために二階堂と呼ばれ,その名は現在も周辺の地名として残っている。


室町時代の1405年に焼失した。復元されたCG→武家の古都鎌倉HP を見ると規模も優美さも平等院鳳凰堂クラスである。

法華堂


金沢街道を西に向かう。



中心街に入ったところで三たび北側の山に向かう。法華堂跡である。



小路が山に突き当たって右に折れる。その角に小さな公園があったので自転車を停めさせてもらう。



小さな村の小さな神社に上がる石段を思わせるロケーションである。



中ほどにコンクリート製のみすぼらしい鳥居が設えられている。



石段の上に小さな広場があってそこに源頼朝の墓があった。隣接する鶴岡八幡宮の境内は平日にもかかわらず参拝客でごった返しているが,この場所を訪れる人はない。ときどき戦ぐ秋風は穏やかに落ち葉を動かすこともない。常緑樹の葉が微かに音を立てる。



源頼朝墓

近年,東側の広場に義時の墓が発見された。「前奥州禅門(北条義時)の葬送。故右大将家(頼朝)法華堂の東の山上をもって墳墓となす」との吾妻鏡の記述に符合する。


伊豆江間,韮山からここまで史跡を巡ったが,ボクには北条義時という人物が全く見えてこない。つい先日,三谷幸喜氏が朝日新聞に連載するコラムの中で「鎌倉殿の13人」に触れ,義時を「ダーク」と呼んでいた。この人物を主人公に本当に面白いドラマを作ったならば彼は稀代の天才だろう。



白旗神社
目次へ09/鎌倉後編へ