12/トバヨ!

Aug, 2004

翌日,サボイホテルに,さなぎ娘のウルトラ美女バネッサが,仕事のあるハナの代わりに現れた。最初にボクたちにプレゼントがしたいので買い物に行こうと言う。いくらハナの友だちとはいえ,こうして休みに付き合ってくれるだけでも,かなりびっくりなのであって,プレゼントを贈りたいのはむしろボクらの方だ。

 

 

そう言うボクたちをひきずるように,ホテルの近くにあるファッションモールのビルへ連れていく。あまり負担をかけたくなかったので,ドレミが

「Tシャツが欲しい」

と機転をきかせた。一緒にかわいいのを探して買ってもらったが,彼女は満足しない。

結局,ボクのお財布を買ってもらうことになってしまった。ビルは3,4階と上がるにつれて,怪しげなテナントが増え,売り声は日本語が中心になってくる。

「まいどー,カンッペキなニセモノあるよー。」

立地で言えば,渋谷の109やラフォーレ原宿あたりで堂々とブランドイミテーションを売っているようなものだ。流暢な日本語に思わず足が止まる。若いのか同年代くらいなのか年令不詳の男。もみ手,満面スマイルに腰はあくまで低く

「お客さん,何ホシイヨ,何デモアルヨ。バッグ?時計?」

と張りきった。ドレミがくすぐったそうに首をすくめて

「Shuうー,どうしよう」

と,ボクの腕をとる。面白すぎてこらえられないときの彼女のクセだ。バネッサは少し横でにこにこしている。もしかしたら,彼女はボクたちにこのやり取りを体験させてくれようとしたのかもしれない。

「財布なんですが」

「オサイフ,アルヨー。ビトン?シャネル?何でもアルヨー。コレ,ニセモノ。」

彼はショーウィンドゥからオサイフをいくつも掴み出した。

「コチラはカンペキなニセモノ。ほら,モヨウ…」

次々と比較しながら説明してくれるが,カンペキでない方のニセモノは,トレードマークの連続柄の花びらの数が違うとか,LVのはずのロゴマークがLAになっているとか,ブランドに疎いボクらでも一目でわかる粗悪品だ。これらと比較しているレベルでは,「カンペキなニセモノ」のカンペキ度も眉唾だろう。が,口上があまりにも面白い。ドレミは笑いすぎて,胸を押さえながら,目を白黒させている。

このままでは彼女が気絶してしまいそうだったので

「ブランド品はいりません。韓国製のいい品物はありますか?」

と,ボクは口上を遮った。売り子は一瞬,面食らったようだったが,

「もちろん,倉庫にアルヨー。ちょっとだけ待ってて」

言うが早いか,ボクたちが行ってしまわないように,ホントに猛ダッシュでどこかに走って行った。

こんな間口一間のブースがひしめくフロアに倉庫があるとは思えない。おそらく仲間の店からめぼしい品を仕入れてきたのだろう。まもなく,両手にオサイフを抱えてあたふたと戻ってきた。最初に婦人物。お約束らしく,まず塩ビの安物を見せてから,真っ赤な本革製の本命を取り出す。やおらジッポーを取り出して,炎に財布をくぐらせた。

「ホンモノじゃないともえちゃうね。ホラ,革です」

ドレミが目を丸くして感心している。ボクが小銭入れの形を気にするのを見ると,

「コレ,マーチアルヨ,マチ」

と,マチを広げて見せた。

ドレミのおなかがよじれる音がした。十分すぎるほど楽しませてもらったので,ボクの気に入った男物と合わせて言い値で買おうとすると,バネッサがいくらかまけさせて自分で払おうとする。押し問答の挙げ句,ボクの財布は買ってもらって,ドレミの赤いマチの豊かな方は自分たちで買うことにした。「カンペキなニセモノ」は,その後しばらくボクたちの流行語になった。

せめてお昼はボクたちがごちそうしようと,今度はボクたちがバネッサをとんかつ屋に連れていった。ソウルでは韓国人にもとんかつはポピュラーな食べ物で専門店もある。どこか良い店はないかと物色したら,なんと「新宿さぼてん」があった。

メニューもほとんど同じで,米も赤だしも,日本産と思われる。小さなすりばちに白ゴマが運ばれてくるのも東京の本店と同じだ。するとバネッサが「こうするのよ」と,ゴマをすってみせるので,ボクらの家は新宿の近くだとは言いづらくなってしまった。バネッサは東京にも留学経験があり,日本食のマナーでとんかつを食べる。つい一週間前に,イベント関係のベンチャーを起業したそうだ。

「そ,そんな忙しいときにボクらなんか案内してくれてていいの?」

「平気平気,まだ社員はわたしだけだもん。」

と,いうわけで,

「まだ2時間くらい大丈夫」

と言う彼女に甘えて,チャンドックン(昌徳宮)の入口まで連れて行ってもらうことにした。チャンドックンは李朝3代国王の建てた宮殿で,梨本宮家から最後の李王に嫁いだ万子(まさこ)妃が晩年暮らしたところとして日本にも知られている。

世界遺産にも指定されて歴史的建造物が多いため,観光客は門の前から出発するツアーのガイドに従って見学しなくてはならない。せめて英語のツアーの出発時間をバネッサに聞いてもらおうと思っていたのだが,それは杞憂だった。日本語のツアーが日に何組も出ていたのだ。

門の前で,バネッサとハグして別れた。お礼の言いようがないとはまさにこのことだ。バネッサの姿が地下鉄の駅に消えたとき,拡声器から日本語が聞こえてきた。

ボクたちのツアーのガイドは初老の女の人だった。集まった日本人が100人くらいの大団体になったので,おそらくベテランのガイドがついたのであろう。少しなまりはあるものの,名調子でちょっとしたギャグまでイヤミがない。堂々と100人の団体を引率してゆく。

 

 

行列の前に行ったり,後ろに行ったりして,撮影に忙しいボクとは対照的に,ドレミはいつも旗のすぐ後ろをきちんとついていく。ガイドが始まると,拡声器のまん前で熱心に聞いている。史実の解説には頷きながら聞き耳を立て,ジョークには目をきらきらさせて笑う。さぞやガイドさんも話しやすかろう。

ふだん,ボクが旗の後ろについて歩くツアーを極端に嫌うので,めったにこういう機会がないけれど,もともと彼女は講義や講演を聞くのが好きなのだ。その様子を見ていると,英語の看板を探して読んだり,行く先を地図で調べたり,はては今夜の宿の心配をしたりしながら見物するのとちがって,ただ,あとをついてまわるのも,たまにはよいものだと思ったりもする。


昼食が重かったので,夕飯はまたコンビニとパン屋にした。やっと缶の色で口に会う缶コーヒーが分かるくらい慣れたのに,明後日の午後には東京に戻っているとは残念だ。ミョンドンのメインストリートをまるでお祭りのように人混みが埋めている。さほど広くない通りの真ん中に屋台が並ぶ。数日泊まったくらいで,住めば都と言うのも大袈裟だが,旅行の拠点にしたサボイホテルの周辺は,何だか親近感を覚えてくるから不思議だ。

雑踏の苦手なボクでさえそうなのだから,ドレミは…あれ?もう屋台のアクセサリー屋さんで,何やら一心に物色している。彼女が身に付けるアクセサリーはそんな安物だけだ。

甲斐性のない夫は,シャッターの降りた店の軒下に身を寄せてたばこに火をつけた。

翌日も市内で過ごしたボクたちは,午後をオープンカフェで読書して過ごした。なぜ,そんなに余裕があるかというと,飛行機代を安くするために,休暇いっぱいの日まで遅い便でチケットをFIXしていたからだ。いつもならぎりぎりまでレンタカーの旅を続けているのだが,ハナやフーンの休日に合わせてソウルに戻ったのだった。

カフェの前で拾ったタクシーの運転手に,ハナが書いてくれたメモを渡した。

「この二人を父の会社の前まで乗せて,彼の携帯に電話してください。」

と書いてあるらしい。運転手は無言だったが,それを読んでにやりと笑いとランクを積むのを手伝ってくれた。ハナのお父さんは市内の建設会社に勤めていた。タクシードライバーが電話すると,顔中笑顔で迎えに降りてきてくれた。

「ありがとう」

の他はボクらも笑顔しかコミュニケーションの手段がない。あとは身振り手振りだけなので,運転手さんに「ありがとう」,お父さんに「大きなビルですね」「元気で帰ってきました」と伝えようとすれば,ほとんど路上パントマイムだ。

建設会社はビルの1フロアで,大きくはないが清潔なオフィスだった。メインの営業時間は過ぎているのか人はまばらで静かだ。応接室で暫く待つように言われて,若い女性社員がアイスコーヒーを運んできてくれる。待つほどもなく,お父さんが仕事を片付けてきてくれた。

暮れなずむソウルは激しい通勤渋滞になっていた。郊外に帰宅する車で麻痺する幹線道路を,お父さんのSUVは慣れたハンドルさばきで車線を選びながら,滑らかに走る。それでも車の絶対量が多いので,なかなか進まない。ビートルズなどの英語のCDをかけてくれている。お互い言葉がまったく通じないので,ボクたちも日本語で会話するのを遠慮していた。車内にはCDの音楽だけが流れている。お父さんが黙って未開封の同じCDを差し出す。おそらく今夜の車内のために買いに行ってくれたのだろう。CDの他に日本語訳のついた韓国のガイドブックもプレゼントされた。人と知り合うのは本当に素敵なことだ。

ソウル郊外の街並みに遅い夜の帷が下りてくる。インチョンのマンションまで1時間15分くらいかかった。ボクらの通勤も東京の中心部を西から東に横断するので,たまに1時間を越えることもあるが,ここの渋滞はケタ外れだ。フーンは韓国の人口の70%がソウルに集中していると言っていたが,たぶん車は80%以上がこの街を走っているのではないか。これからは少々くらいの渋滞で音を上げるのはやめようと感心してしまった。おまけにお父さんはボクらを送り届けると,法事だとかで,ひとりソウルに引き返していった。

家ではお母さんがサムゲタンの準備をして待っていた。サムゲタンはホールチキンをなつめや香辛料といっしょに煮込む家庭料理だ。ソウルの黄鶴洞市場で,ドレミがサムゲタンの香辛料セットを買ったとき,ハナが携帯電話でお母さんに作り方を確かめた。お母さんはそれを覚えていて,ドレミのためにその家庭料理を実演しようと,準備していてくれたのだ。ハナが仕事から帰ってきて,

「レシピならShuに教えないと」

と言いながら手伝う。食事のあとで,土砂降りの中を近所のスーパーに行って過ごし,夜遅く帰ってきたお父さんとソウジュを空けた。

雨は夜半も降り続き,ボクたちの彩夏が終わった。

 

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東京の首都高速湾岸線の木場付近を走ると,海側のビルの上ににヒュンダイの巨大な看板がそびえている。

「エラントラの新車より4年落ちのカローラの方が品質がいいんですよ。半年乗ったらその差は歴然です。」

ボクの親しくしている中古車屋さんが,ヒュンダイのミドルセダンを下取りしたとき,こうこぼしていた。もちろん,圧倒的なトヨタ車の基本性能を支えているのは,東海地方にある中小の部品工場の技術力であって,トヨタとヒュンダイの差ではない。しかし,この現状では,ヒュンダイが,日本を市場として真剣に考えているとは思えない。実際,この場所以外にヒュンダイの文字を見ることは稀だし,車もほとんど見掛けることがない。では,この大看板は何ごとだろうと,ボクはそれを帰りのリムジンバスから,ぼんやり眺めて思った。

バスの運転手が無線を聞いて車線を左に変えた。環状線の箱崎が流れているのだろう。成田からリムジンバスで都心に向かう方法は,環状線の混雑状況によって2通りある。湾岸線から首都高9号経由で箱崎に入るコースと,ずっと南下してレインボーブリッジを渡るコースだ。木場のジャンクションはその分岐点なので,誰もがそこにある大看板を見ることになる。

韓国最大の企業が,もし,日本に来る外国人や自国の旅行者を意識して,この場所に大看板を維持しているとすれば,かなり凄みのある広告ではないだろうか。きっと東京に来る韓国人は,この看板にとても勇気づけられていることだろう。

韓国旅行最終日の朝,まだ初心者ドライバーのハナがインチョン国際空港まで送ってくれた。お父さんはその日も早くから渋滞の中を出勤だったからだ。家を出るとき,ボクたちは「指差し韓国語」の用例から,あらん限りの感謝のことばを暗記して,お母さんに挨拶しようとしたが,お母さんも空港まで見送りに来てくれたので,結局,車の中でみんな忘れてしまった。

搭乗口で思いっきり手を振るハナとお母さんに会釈し,しゃくりあげるドレミを促したのは,たった3時間前だ。そして今はもうヒュンダイの看板を見上げて,韓国を遠い外国として感じているのはとても不思議な気持ちだ。

東京もどんより雲っている。韓国の美しい景色や優しい人々も,真夏の太陽に彩られた夢の中のできごとのようだ。

そうだ。誰かが東京に来たら,まずバスに乗せてあげよう。


「みんな,あんまり静かな運転なんで驚くだろうな。」
「フーンなんか滑ってるみたいだって大袈裟にさわぐわよ,きっと。」

ボクたちを乗せたリムジンバスも滑るように首都高環状線に入っていった。


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