水の都大作戦

Apr, 2004

その年,桜前線は平年より10日ほど早く日本列島を北上した。そのためボクと妻のドレミが毎年恒例にしている春先の放浪ドライブにちょうどぶつかったのだった。旅先の奈良の奥山,姫路城,津山城跡,松江城など,いずれ劣らぬ桜の名所で満開の桜を楽しんだ二人はいささか疲れて3日目の旅の空を小雨模様の境港から見上げた。

「どうする?今夜」

お天気次第,気分次第で放浪するボクたちの旅はほとんど車泊だが天気の悪い日だけはその場所から電話して近くの温泉旅館などを探す。

そして早めにチェックインして体を休め,少々贅沢な宿の晩餉を楽しむのがいつものパターンだ。しかしこの日はあいにく土曜日だった。

「割高な日に宿を取るのはどうも旅名人の沽券にかかわるよなあ」
「宿はいらないけどごちそうは食べたい!」

ドレミがそう言うのはもっともな話だった。東京を出てからずっと桜を追いかけていたので,夕飯はコンビニや閉店間際のスーパーの惣菜ですませていた。いくら貧乏旅行でもメリハリというものがある。ボクは愛妻の希望に応えるべく地図とカーナビをにらみながら考えに考えた。

民家に迷惑をかけずに車泊できる場所はたいてい町からずっと離れたところだ。おしゃれなカフェか居酒屋で飲んでから歩ける距離ではないし,かと言って酔っ払い運転するわけにもいかない。しかしほどなく名案がひらめいた。こと旅となるとどうしてボクはこんなにもクリエイティブなアイデアが浮かぶのだろう。

「そうかしら?」

と半信半疑のドレミが苦笑する。

要するに居酒屋と車を停めてある場所の間の交通手段があればいいわけだ。宍道湖の北岸と南岸に道の駅がある。どちらも湖に面して近くに民家はなく車泊には最適だがボクの注目したのは北岸の方だ。そこには私鉄の一畑電鉄が走っていて道の駅の近くに本物の駅がある。この電車を利用すれば松江市内まで往復することができるだろう。名づけて「水の都大作戦」。ボクはこの冒険企画に自分でしびれドレミは宍道湖八珍のごちそうにわくわくした。

春休みの土曜日で交通量は多かったが何度か訪れてお気に入りの松江の町で松江駅前にはたどり着くのはたやすかった。まず松江駅に来たのは時刻表を調べる必要があったのと,例によってドレミが「まずお風呂に入りたい」と言ったからだ。時刻表は単純だったが問題は土曜の上り(出雲行)最終電車が20:51発だったことだ。駅から松江の中心街まで徒歩20分くらいなので,市内のお店で楽しむには遅くとも車を湖に停めて夕方5時頃には松江駅に到着する電車に乗って戻って来なければならない。

時計を見ると3時過ぎだった。

「けっこうタイトだぞ」

ボクたちは時間のかかりそうな温泉施設を諦め城東の母衣町にある堀割り沿いの銭湯に向かった。男女別の暖簾をくぐって正面にある時計を見た。

「何分かかる?」

「15分」

「よし,じゃあ3:40に出るゾ。遅くなりそうならお互い声をかけること」

「はーい!」

番台をはさんでの緊迫した会話に料金を受け取りながらおばあさんが目を白黒させている。

桶で頭からお湯をかぶり,ざくざくと体を洗う。女湯でもドレミが猛然と体を洗っていることだろう。熱い湯につかって淡い萌木(もえぎ)色のペンキが塗られた天井を見上げた。旅先で味わう昔ながらの銭湯の雰囲気は格別だが今日は時間がない。

脱衣所に出てくると

「お連れさんも時間通りあがっとるよ」

と番台のおばあさんが声をかけてくれた。

「そうですか。ありがとうございます。」

わざわざ声をかけてくれたので急いでいる理由を話したかったが事情が複雑すぎるのであきらめた。

いくら市内の抜け道を工夫しても宍道湖大橋に向かう渋滞を避けられない。道の駅に向かう湖岸道路に出たときは午後4時を大きく過ぎてしまっていた。目指す一畑電鉄秋鹿(あいか)駅は松江駅から3つ目だった。松江行の下り列車が秋鹿(あいか)駅に停車するのはおそらく4時半頃になるだろう。この電車を外すと次は1時間近く後なので計画はつぶれる。ぎりぎりのタイミングだ。のろのろと進む車列がもどかしい。

ようやく道路を挟んで湖と反対側に秋鹿(あいか)駅が見えてきた。

「電車の時間確かめて電話しろ!」

ドレミが飛び降りて駅舎に走って行く。その間にボクは600m先の道の駅に車を走らせた。空いていた駐車スペースに車を入れると同時に携帯電話が鳴る。

「えーん。33分だってー!」

時計を見ると31分だった。

ムリだ。まもなく後方に見える線路を列車が通りすぎてゆくだろう。それでもボクは素早く車を下り駅へ向かって駆け出した。間に合うと考えたわけではない。遊び半分のボクとちがってドレミはけっこう本気で今夜の居酒屋を楽しみにしていたことにさっきの電話の声で気づいていたからだ。せめて秋鹿(あいか)駅まで彼女を迎えに行き「惜しかったね」「これもまたいい思い出だね」と健闘を称え合って,夕暮れの湖畔をゆっくり散歩しながら帰ってくるドラマを思い描いていた。そのドラマの完結のためにはかなわぬまでも一生懸命走って途中で電車に追い抜かれ,できれば駅で走り去るその電車を遠く見送るシーンが不可欠だと思ったのだ。

線路と平行する歩道に出て全速力で走り始めた。背後に電車の気配がない。「遅れているのかな」と怪訝に感じた瞬間に重大なことを思い出した。さっき時間を確認した車の時計のことだ!それは仕事や約束の用心のためにいつも2分進めてあったのだ。

荷物を持って車を降り走り出すまでの時間を考えてもまだちょうど2分くらいはあるはずだ。ボクは電車に抜かれたところで緩めるはずだった全力疾走をそのまま続けた。たちまち腿やふくらはぎに乳酸がたまってくるのを感じる。600mを2分となればおよそ女子マラソンの世界記録の平均ペースだ。いくら運動不足のボクでも全力疾走なら不可能なタイムではない。両足に血液が集中して真っ白になった頭の中になぜか「風になる」と言った高橋尚子選手の言葉が思い浮かんだ。

右手が開けて曇天に鈍く暮色をたたえた宍道湖が広がった。線路脇に続く菜の花がほの白く揺れる。そのとき限界を越えていた足がふと軽くなった。湖は凪いで菜の花がほのかに香る。ボクも「風になった(笑)」ように感じた。

背後で踏み切りが鳴り始める。ボクを見つけたドレミが駅舎に走り込むのが見える。切符を買いに入ったのだろう,すぐに出てくるとホームの脇の遮断機をくぐってきた。

ハイタッチして抱き合うボクたちの横に16:33の松江行き普通列車が定時で滑り込んできた。

電車に乗ったボクの足は痙攣し心臓や肺は完全にオーバーレブしていて,もしかしたらもうダメかと思うほど苦しかったがかろうじて回復した。生まれてこの方ここまで限界ぎりぎりの運動をした記憶がない。

松江城の堀端でこじゃれた居酒屋に入ったボクたちはまださっきのドラマのようなできごとの興奮が冷めやらず,つい「じゃんじゃん持って来い」状態になっていた。

しじみを始め地物の海産物や大吟醸の地酒をびしばし注文して,結局宿に泊まるほどの散財をした上にぐでんぐでんに酔っ払った。

そして霧雨の降り出した宍道湖のほとりを上機嫌の千鳥足で散歩した。

「おお!温泉まであったぞ!」


駅にあった足湯であったまり,予定通り上りの最終列車に乗って道の駅に戻ると満車に近かった駐車場にはひっそりと数台の車が残っているだけだった。

車の窓に目隠しをして着替える。妻は満足したのかあっという間に寝息をたて始めた。雨はいつしかやんで,ウインドウ越しに見上げた空の雲間には星がいくつか瞬いていた。

*注*文中「松江駅」とあるのは正確には「一畑電鉄松江宍道湖温泉駅」のことです。位置関係をわかりやすくするために「松江駅」と表記しました。また,秋鹿駅の写真は作戦の翌朝に撮ったものを夕景の雰囲気に画像処理しました。

TOPへ戻る