57/ウルフ(2)

Aug, 2009

相撲記念館の開館時間が来てボクたちが中に入ると,稽古はもう始まっていた。

見物席の最前列中央に陣取れば,ばしーんと筋肉がぶつかる音が響く。目の前,3mの至近距離で力士が実戦さながらのぶつかり稽古をしている。もちろん初めての体験だ。ドレミなどあまりの迫力に気圧されて,ムンクの叫び状態になっている。

「観客が大勢でよかったね。」

しばらくして我にかえった彼女が耳元で囁いた。なるほど,見回すと畳敷きの観客席がうまるほどに見物人が増えていた。「もしも見学しているのが二人だけだったら気まずいよね。」と心配していたのは杞憂だっだ。協会の不祥事が続いても相撲人気は衰えていない。

唐突に稽古場の空気がピンと張りつめたかと思うと,脇の入り口からウルフが現れ,ボクの目の前に背中を見せてどっかりと座った。若い衆が這いつくばるようにして,お茶とヨーグルトを捧げ持ってきて置き,そのままの姿勢で下がっていった。

「うふふ。子ども用のかわいいヨーグルトだ。」


「しぃ!」

ウルフに聞こえたらどうすんだよ。

「おい!!」

ひえー!たまげた。チビるかと思った。

「ちょっと来い!」


恐ろしい声でウルフに呼ばれたのは ,腰高に立ち会いしたためにあっさりと土俵を割った若い力士だった。三役に上がる前の千代の富士を彷彿させるような筋骨隆々,ソップ型の若者である。

ようやく結えるようになったばかりの髷を振り乱してあたふたとウルフのそばに蹲踞した。

「ここでえ!」

現役時代,巨漢力士を次々と引きつけては投げ飛ばしたウルフの左腕がもりもりと膨れ上がり,固いゲンコツが弟子の額を襲った。

「ばしーんと当たるんだよお!」

若者は尻餅をつきそうになるのをこらえて

「はい!ありがとうございます!」

と叫び,猛然と土俵に戻って行った。

観客席は凍りついていたが,ボクは目の前だったので,ウルフが作ったゲンコツは軽く握られているのを見ていた。手を返して面が平らになるようにして額を打っていた。音は派手だが痛くないはずだ。

親方が顎で指示して件の若者の特訓が始まった。ぶつかり稽古は通常,勝ったものが土俵に残り,稽古相手を選べる。勝負がつくと土俵を囲むようにして待っていた者たちが争って手を差し出す。勝者はその中から一人を選んで手をつなぎ,次の対戦が始まるしくみだ。しかし,特訓の指示が入ると指名された者は負けても負けても土俵に残り,次々に新手と対戦する。

若者がとうとう土俵外に叩きつけられてすぐには立ち上がれず大きくあえいだ。

「苦しいときはどーするんだよ!」

ウルフが叱責する。

「はい!深呼吸です!」

彼は大きく息を吐いて,また突進してゆく。

再び叩きつけられ顔を鼻血で染める。先輩格の力士が脱脂綿を詰めてやったり,しきりにまわしを締めなおしたりしてやる。息を整える間を与える暗黙の了解がウルフと先輩格の間にはある。機を見て再びウルフが言う。

「苦しいときはどうすんだよ!!」
「はい!深呼吸です!」


ふらふらになりながら,若者はまた土俵に上がる。ウルフは自分に似たその若者が可愛くて仕方ないのだ。どうしても強く育てたいのだ。

先輩格ら他の力士たちの眼差しは羨望である。憧れの親方に目をかけられている若者が羨ましいのだ。

その辺の機微が女には分からない。後方で目を覆いながら見ていた初老の女性が

「かわいそう。死んじゃうわよ。これじゃあ,いじめじゃない。」

とつぶやく。判官びいきである。そしてたまさか若者が勝ったときに手を叩いた。数人がそれに和し,やがてドレミまで一緒に拍手するようになった,そのときである。

ウルフの肩がわずかに揺れて振り向きもせずに言った。

「拍手うるさい!黙って見てなさい!」

若者に言うときもそうだが,決して大きい声でも強い語気でもない。それなのに鞭のように鋭く響く。

観客席は水を打ったように静まり返り,5DMK2の連写音が目立ち始めた。フラッシュを使わなければ写真撮影は自由とのことだったが,この音ではボクもいつ叱られるか知れない。ときどき発光禁止の設定を知らない観光客のデジカメが,露出不足を感知して自動的にストロボを焚いたりするのでヒヤリとする。

特訓が終わって通常稽古になったのを潮にそっと観客席をあとにした。表に出たところでドレミがペロッと舌を出した。

「叱られちゃった。」

ウルフに叱られるなんてなかなか得がたい経験である。

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