04/楓浜

April, 2022


和歌山の朝はとても早く目覚めた。前日の激しい運動で下半身が感覚のないほど筋肉痛になっていた。…が,腰痛がそれほどではない。

「おい,城に行くぞ」



ドレミを起こして再び和歌山城に挑んだ。これが決定的に悪かった。腰が軽かったのは筋肉痛が激しすぎて,相対的に痛みが感じられないだけだった。



桜はこの朝,美しさの頂点を迎えていた。 


 



今日はこの旅でもっとも過酷な行軍の待つ一日となるのに,すでにボクの足腰は終わってしまった。



朝食バイキングの会場には,なんともゼイタクな窓の借景。城と桜を眺めながら優雅な朝食。これはもう疑いない。きっとここは東急とかプリンスとかいうような,ボクらとは縁のない高級ホテルが潰れ,格安ホテルとして営業再開したのだろう。



格安からさらに数百円の駐車料金を節約したボクたちは,チェックアウトすると自転車を引いて遠くの駐車場にダッシュした。



料金が加算されるぎりぎり5分前に自転車を積み終えて出発!!串揚げ屋さんのアドバイスに従って南の海南インターを目指す。



久しぶりに少々飛ばした。途中のパーキングでひと月前に新調したSigma50-500mmを5D Mark IIIに装着する。

現地でのスタートダッシュに備えて準備は万端。



戦いの場に到着した。



ここばかりは入場制限があるので予め予約してチケットも購入してあった。駐車場から走ろうと思ったが,重機材を担いでよろよろと歩くのが精一杯。



それでもあっと言う間に後ろは長蛇の列となった。



放送が流れ10分前に繰り上げ開園。うおおおお!

猛ダッシュ!…と言うのは嘘である。ボクの機材は

5DMarkIII,7D,X-S10,Sigma50-500mm,EF70-200mm,EF300mm,XF16mm,Touit50mm

…健常者でも担ぐのが精一杯だろう。

 



ウエルカムグリーティングに並んでいるお土産屋さんのお姉さんにツーショットをお願いして記念撮影パチリ。写真の姿勢からも足許が危ないことが見て取れる。

お目当てのジャイアントパンダの赤ちゃん楓浜がいるのはいちばん奥のブリーディングセンターなので,とても走れる距離ではない。


動画で見慣れたブリーディングセンターに着いた。

「今,楓浜は授乳中です。どうぞ愛らしい姿をご鑑賞くださーい。」

と係員がトラメガでのんびりとお知らせしている。ぱらぱらと30人くらいの観客がいる。東京とは比べ物にならない緩さである。ボクはさっそく50-500mmを構えた。

「あれ?」

近いのである。動画からイメージしていた距離とは全然違う。フルサイズの5Dでも500mmでは全身が入らない。

楓浜は朝の授乳のあと30分くらいが最も活発に動く。ひたすら笹を食べる良浜ママにかまってほしくて,あれこれちょっかいや悪戯をしかける。その様子が動画サイトでも人気である。ボクたちは小一時間,ずっとそのほほえましい姿を楽しんだ。上野動物園ではぜったいこうはいかないだろう。ホンモノはやっぱり動画よりずっといい。観客が増えてきたところで最前列を譲った。


ここでいったん駐車場に戻って武装解除することにした。この重装備では歩けない。



カメラを1台に絞る。出番のなかった7Dが寂しそうだったので,彼と70-200を動物園歩きのお供に選んだ。X-S10は55-200mmをつけてドレミに持たせた。



午後は気温も上がるためか楓浜は台上で寝てばかり,ほとんど動かなくなる。それは想定内。夕方までは他の動物を見物する計画である。歩いてはしゃがみ,ベンチがあれば必ず座る。終わっている足腰をだましだましの行軍である。



孫を連れているほどの年令の夫婦が二人きりで動物園を楽しむ姿は少々滑稽かもしれない。それでいい。


ボクたちは4年前に喪ったゴールデンレトリバーのタローロスから全く立ち直っていない。いや,立ち直ろうとしていないのだと思う。タローは子どものできなかったボクたちにとっては息子の代わりではなく息子そのものだった。ともに過ごした愉しい日々を忘れたくない。

それでも時というものは優しいと言うべきか残酷と言うのか…最初は互いを慮り,周りを意識しての作り笑いだったのが,3年を過ぎてから,ときに心から笑っている自分に気づくようになった。

ジャイアントパンダの楓浜がアドベンチャーワールドで誕生したのはそんな頃だった。そしてドレミは動画サイトに投稿される楓浜の動画にどっぷりとハマった。いくつものアカウントをお気に入りにして更新を楽しみにしている。「見てもいい?」と待ちきれずに出勤中の車で見ることもあった。「今日はふーちゃんが転んだ。」「今日はママの背中に突進した。」と毎日ボクに報告する。

「春にしまなみ海道に行くとき,ついでに白浜に寄るぞ。」
「え!?」
「楓浜に会いに行く。」

白浜は広島に行くついでと言うにはずいぶんとコースから離れている。でもボクが言ったからには必ず行くことを彼女は知っている。それから嬉々としてあれこれと調べ始めた。ブリーディングセンターに行く道は何度も地図でシミュレーションを重ねた。雨の日の様子など,どうしてもわからないことは園に電話して確かめた。

「シュウ,無理してるでしょ。」

今年に入ってドレミが言った。さすがに鋭い。コロナ禍前からボクの苦手なものは「人込み・行列・流行」である。楓浜はそのすべての条件を満たしている。ボクはお小遣いをはたいて50-500を買った。パンダの撮影を楽しみにしているというアピールである。平日を狙って日程を決め,予約を入れさせたのもボクである。そして開園時間に並ぶため,ことさらに急いで車を飛ばしてきた。


もちろん昼はパンダランチにこだわる。

ドレミは他の動物も好きである。だから園内めぐりもいとわない。7D+70-200mmの作品群にはボクの本気度が写りこんでいる↓



夕方,楓浜の退場時間が近づいた。まだ遊んでいたい楓浜が飼育員にだだをこねる様子は,ママに甘える朝と並んでファンには人気の時間帯である。



それを知る人が大勢ブリーディングセンターを囲んだ。少し早めに最前列に陣取ってしゃがんだボクの後ろにも人垣ができて立つこともできず動けなくなった。

観客の多さを見た園の計らいか,楓浜の退場時間は1時間20分も遅れた。その間,ずっとしゃがんでいることを余儀なくされたボクはスネと両足首にもダメージを受けた。



そしてこの日に限って楓浜は逃亡することもだだをこねることもなく,リンゴにつられてあっさりと退場してしまった。



別角度の離れた場所で同じように群衆に閉じ込められていたドレミが,去っていく人々の流れに逆らって傍までやってきた。笑顔が上気している。

「かわいかったねー。」

…そうか。あれで満足だったのか。それなら待った甲斐があったというものである。傾きかけた日差しの中,誰もいなくなった柵の前でドレミの肩を借りて立ち上がった。



もちろんボクはパンダを見にはるばる南紀にやってきたわけではない。ただ妻の笑顔を見るためである。彼女が満足すれば目的は達せられた。



朝,記念写真に入ってくれた売り子のいる店でぬいぐるみやおみやげを買ってから駐車場まで歩いた。踏み出す足のかかとが軸足のつま先までしか行かない。つまり歩幅が靴の長さしかない。満身ならぬ半身創痍だが心は凱旋将軍のそれである。



もはや下半身が筋肉痛と言うよりところ構わず攣っている状態である。園を出てとりあえず立ち寄り湯に行った。60才以上はシニア料金と書いてあった。「61才です。」と言うと2割も入浴料が割引になった。

あっけなく初シニアを体験した。



立ち寄り湯でもさすがに白浜の湯である。30分ほども辛抱強く腰湯し,客のいない露天風呂でストレッチすると歩幅が30cmほどにまで回復した。

湯から上がると空が美しく染まって来た。これで今夜からはいつもと同じ気まま旅である。星撮りして車泊しようがどんなにマイナーな史跡を巡ろうがドレミは嬉々としてついてくるだろう。


なにしろ布石は十分,ボクはパンダにつきあったのだ。えっへん。

ドレミが撮った楓浜の動画↓

後日談だが,この10日ほど後に楓浜はひとり立ちして母親と別に暮らし始めた。ボクらがママに甘える姿を見られたのはぎりぎりのタイミングだったことになる。野生では母親が独り立ちを促すために子を縄張りから激しく追い出す。狭い動物園では危険なので一緒に飼育はできないのだ。楓浜が寂しがるかと思いきや,ショックで元気がなくなったのは母親の良浜だった。今も楓浜を探し回る姿がネットで話題になり同情を集めている。

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