08/檸檬の島

April, 2022

空は青く海は碧く,満開の桜が島々を薄紅に輝かせ,平地は菜の花で一面に埋もれ,丘には柑橘類の実がどこまでも成っている。せとか,伊予柑,不知火,レモン…。ボクたちが走ったしまなみ海道はきっと一年で一番美しい二日間だったろう。


しまなみ旅館の普通の朝食。お魚はちょっと…。一週間くらいギブアップ。 



女将さんに見送られて背筋の伸びた40代のワカモノが颯爽と発ってゆく。



「どうしたの?」
「休憩」

宿から見えなくなったところで61才に戻る。腰は80才。 



そこがもう橋の入り口だった。



鼻栗瀬戸を俯瞰する。夕べ散歩した海岸が見える。しまなみ旅館はきっとあのあたり。忘れられない楽しい思い出の入り江がもう懐かしい。



大三島上陸。 



橋の袂が桜で埋もれていた。 



「一日中,ここにいてもいいな。」


案内板に従って甘崎城跡を臨む堤防に出た。堤防に初老の男が立っている。その佇まいがどうも場違いというか浮いている感じがする。男の方もボクらを…というより自転車の観光客を快く思っていない。場の空気が重く沈滞するのに困ってボクとドレミはアイコンタクトした。

「すみません。シャッター押してもらえますか?」

たった一言話しかけることで関係は全く変わる。男は近所の住民だった。この島で生まれ育ち,大阪の企業に就職して定年を迎えた。それを機に故郷で暮らそうと帰って来たが,家族は誰も着いて来なかったのだと言う。ボクは道沿いにたわわに実る柑橘を指さして尋ねた。

「あれは伊予柑ですか?不知火にも見えますけど…」
「さあ…。」

わかりませんと男は答えた。彼の少年時代には蜜柑は栽培していなかったと言う。不在の間に故郷は製塩と米作りの島から果樹栽培の村に変わっていた。もちろん橋を渡って日本中,世界中から来たサイクリストが家の前を通るようになるとは想像もしていなかったろう。隣家の栽培している果樹の名前がわからないと言うことは近隣との交流もない。世代変わりして知り合いもいない。彼の一人暮らしが想像される。ブランドもののスポーツウエアに真っ白なテニスシューズを身に着けて散歩に出ている。ボクたちとの会話では,伊予弁でも大阪弁でもない流暢な標準語で穏やかに話す。大阪の大企業で高いポストにいたことは想像に難くない。彼が故郷に溶け込んで暮らす日は来るだろうか。


多々羅大橋。 サイクリストの聖地碑があるけれど,さすがに照れ臭いのでちょっと離れたところで到達ポーズ。

この橋を境に広島県に戻ることになる。



橋を渡った生口島は檸檬の島だった。丘一面を黄色く実ったレモンがうずめている。しばらくバイクを止めて見入るほどの美しさ。



島中が春を謳歌している。


生口島の北端,瀬戸田という中心街に入った。ドレミが東京を発つ前から検索していた「おしゃれなカフェ」をリストの上から順番に訪ねていくが,みなネット上の写真やガイドとは少し違っている。お土産屋さんの入れ込みであったり,夏だけのかき氷屋さんだったり。

「仕方ないから平山郁夫美術館の中のカフェにしましょう。」

ボクたちが訪ねた範囲で言えば,ヨーロッパの美術館の中にあるカフェはどこも庶民的である。歩き疲れた観客がコーヒーをごくごくと飲みながら大きなケーキを頬張り,「さあ,行くか!」と勇躍,次の展示室に向かっていくための休憩所である。これに対して東京の美術館に付属するカフェはたいていホテルのロビー並みの料金と雰囲気を醸す。今,ボクが妻のために探しているのは後者である。

平山郁夫画伯,生口島の出身である。パルミラ遺跡の絵は月や太陽の重心にあわせるように地平線や鉛直線が意図的に傾けてられている。初めて「パルミラ遺跡を行く」の前に立ったときは驚きの余り膝ががっくりと折れた覚えがある。文字通り膝を屈する迫力だった。決して誰もまねできない構図の天才である。「広島生変図」はいつか「ゲルニカ」よりも評価される日が必ず来るに違いない。


さて,ボクは美術館の門から玄関までがもう自力では歩けない。結果,この姿とならざるを得ない。仮に旅で足腰を酷使していなかったとしても,現在の腰の状態は10分間の直立姿勢に耐えられない。

そういう事情の人も少なくないようで,どこの美術館でも快く車椅子を貸与してくれる。だが,自転車で橋や峠をアップダウンし,額に汗の塩を噴きながら車椅子にへたり込むのは如何せん説得力に欠けるので肩身が狭い。


常設の平山作品には満足した。写真でしか見たことのなかったスケッチがみな大きなサイズの日本画だったのには驚いた。琳派の特別展もあった。屏風絵はもちろん実物ではないが,畳に座って光琳と宗達を見比べるおもしろい企画はここの学芸員のアイデアだろうか。

平山郁夫画伯が生口島や因島の風景を描いた風景画はここの収蔵品がほとんどで優れてはいるが平凡な作品しかない。

彼の優れたバランス感覚が事務能力にも及んでいたからだろう。芸大の学長や美術院理事長を歴任し,中東や東南アジアの遺跡保護にも多大な功績を残した。だが絵描きとしてそれが幸福だったのかは分からない。晩年,東京の事務室で費やした時間を,もしもこの美しい故郷で過ごされていたらどんな作品を世に残しただろうかと思わずにはいられない。芸大学長やユニセフ大使として慌ただしく帰郷する彼を,故郷の風景はどのように迎えただろうか。ふと甘崎城跡で出会った元重役の姿が思い浮かんだ。あるいは故郷は遠くにありて想うものなのかもしれない。


さて,ドレミお待ちかねのカフェは意外にも欧州型だった。生口島スペシャルのレモンケーキはお土産用の棚から個包装のまま運ばれてきた。さすがにドレミに掛けることばがなく,苦笑いするボク。



冷やした大皿にチョコレートでも細く絞って縞模様に敷き,その上にケーキを開封して載せて,粉砂糖でもふれば,3倍の値段がつけられるだろう。よく言えば良心的と言える。



レモンケーキがなかなか美味しかったので旅のお土産に決まった。美術館の隣りのお土産センターで待機中。



各種のレモンケーキをマックス購入したドレミが店から出てきた。ボクとドレミのバックパックの隙間にぴっちりとレモンケーキを詰めて,さあラストランに向かおう。 



生口橋と因島が見えてきた。



橋への誘導路で見かけるスポンサーの看板。たぶん,標識や道路の整備に協賛しているのだろう。



サイクリストを励まし案内してくれるペイント。



帰って来た因島はますます桜が盛りと咲き誇っていた。水軍城なるコンクリートの施設に立ち寄ってみたがひっそりと開館しているのかどうかも定かでない。



ゴール。

伯方島 0.5km
大三島橋 2.1km
大三島 5.1km
多々羅大橋 3.6km
生口島 11.7km
生口橋 2.9km
因島9.1km
2日目合計 35km


1日目 42.8km+35km=77.8km 初の一泊長距離サイクリングを完走した。


宿でシャワーを浴びて乾杯と行きたいところだが,留守番している母の体調が気になる。送られてくる気丈なLINEの裏を読んで心配するより,一気に帰京することにした。



完走祝いのごちそうは因島パーキングの水軍やきそばになってしまった。



ソメイヨシノが枝をしならせるほど花をつけている。まるでボクたちの健闘を讃え,送り出すかのようだ。



さらばしまなみ海道。


山陽道に美しい三日月が沈む。シャワー施設に行ったが,夕方はトラッカーに人気の時間帯らしく男湯は順番待ちが長い。ドレミだけ行かせてボクは仮眠した。

熊本から戻るときも青森から走るときも帰りはいつも同じ作戦である。1時間ずつ淡々と交代しながらノンストップで夜通し走る。


小牧から中央道に入る。しらべ荘に寄って,庭に置いてある母のライフを整備することにした。村の自動車工場に車検をお願いするためだ。

八ケ岳到着は午前0時。外気温0度,濃霧のため視界が50cmしかない暗闇で,放電防止のために外しておいたバッテリーを装着し,車止めを外してライフを庭から出す。車検を通しても母の体調ではこの車が使われることはもうないかもしれない。



境川で夜が明けた。桃の花で一面ピンクに染まった甲府盆地が疲れた目を休める。 



7時過ぎに渋谷に着いたが母に会うことはできなかった。ボクらの旅行中にナイショでいつもの友だち5人と車で箱根旅行に出かけた後だったのだ。 


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