ラヂオ湯綺談

Apr, 2005

「瀬戸内海に出て夕日でも撮るか。」

春旅に出て3日目の午後,ボクとドレミは廃線間近の三木鉄道の無人駅にいた。 駐車場で地図を広げ,手近で情緒ありそうな海岸を探すと姫路の先に赤穂御崎というのが目に留まった。ボクたちはいつもこうして気ままに行き先を決めながら旅する。

2号線のバイパスを西に走り相生から南に折れると赤穂御崎に向かう県道はすぐに見つかった。岬の突端がちょっとした温泉街になっていてその中心に無料駐車場がある。

狭い断崖に点在する小さな宿の泊まり客もみなこの駐車場を利用しているようだ。「大石名残の松」という標識にひかれて岬の道を歩くと,なるほど小さな松の木が崖から生えている。


大石内蔵助が赤穂を去るときに何度も振り返って見たといわれているそうだが,その松はすでに枯れて,現在の小さな木は二代目である。

あらたのし思いは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし

大石良雄



早着きの客が浴衣姿で散歩するのにすれ違う。

「オレたちもあそこの宿に泊まろうか。」

ドレミが放浪の旅の身を侘びしく思ってはいないかと心配になり,そう尋ねてみたがきょとんとしたまま相手にしない。

「ノドかわいたね。」

ぴょんぴょん石段を登っていく。彼女はボクと出会った十代の頃からこれが普通の旅だと思っている。駐車場の脇の販売機のところで缶コーヒーを買っているドレミに追いついた。

「ここで夕日撮ってから,うまいもん食べに行くかー。」
「うまいもんって?」
「そうだなあ。」
「ラーメン食べたい。」
「よし,賛成!」

車を海に向けて停め文庫本を開いた。

旅で心が満たされるための条件は,時間的・空間的に日常生活から遠く隔たることだ。ボクはこれを「さいはてる」と呼んでいる。ある人にとっては北アルプスのピークが,またある人にとっては東京の雑踏がさいはてだったりもするだろう。赤穂御崎はいわゆるさいはての地ではないのだがボクの旅情は夕暮れの岬で満たされた。

文庫本の文字が見づらくなって,ふとフロントガラスに目を移すとかすかに空が染まりはじめていた。

「しょぼい夕焼けになりそうだなあ。」
「いいじゃん,行こ。」

夕暮れの赤穂崎に瀬戸内の波が静かに打ち寄せる。海岸から見える宿の露天風呂から入浴客の姿が見えなくなって夕餉の時分を迎える。三脚をたたんで車に戻ると一足先に帰ったドレミが銭湯に電話していた。


「いいとこ見つかったよ,変な名前だけど。」

iモード*でヒットした最初の銭湯「ラヂオ湯」に電話すると陽気でお調子者の若い男が出たという。これは珍しい。たいてい小さな銭湯の電話は番台に直接つながり,耳の遠いおばあさんなどが,日本語とは思えなような方言で応対するものだ。

*iモード:携帯電話にdocomoが装備したIP接続サービスで簡単なネット検索機能があった。

商店街の店のシャッターがほとんど閉まった赤穂市の中心街に「ラジオ湯」の小さな煙突はすぐに見つかった。

「すごいよー。おんぼろ!ガラクタの山の横に入り口がある。」

駐車場所を探す間に偵察に行ったドレミが笑いながら報告する。

暖簾を分けて中に入ると,古びてはいるが掃除も行き届いて清潔な感じだった。左右に別れて戸を入ると,ドレミを見るなり番台の男がびっくりしたように男湯側に飛び降りてきた。どうやら電話に出たひょうきんな若主人らしい。おそらくはドレミを若い娘と勘違いして気を使っているのだろう。昔ながらの番台は脱衣所も湯も見渡せる向きにあるのだ。

所在なげに立ったまま煙草に火をつけ,女湯に客が来ても番台の電話に出るときも台に戻ろうとはしない。電話の用件は女湯の先客への伝言だったらしく,やおら大きく息を吸い込んだかと思うと男湯の中戸をがらりと開けて

「長谷のばっちゃー!じいさんが鍵がなくてウチに入れないって怒っとおどー」

と,女湯の天井に向かって叫んだ。

「はあ?」

長谷のばっちゃの返事は予想通りだった。風呂で壁越しに叫んでもお年よりには聞きとれまい。

「かぎ!かぎー!」
「はあ。」

まあ,湯船のばっちゃに伝わったところで裸で鍵を届けられるわけでもないだろう。やがて体を洗い終えたボクが湯船から見ていると「長谷のじいさん」らしき老人が来て脱衣所に座り込んだ若主人の話相手になっている。長谷のじいさんの声は大きいので湯室からもよく聞こえてバイパスに露天風呂やサウナ完備の市営温泉センターができたので行ってみたと話している。

ペンキの絵にブリキの看板,見上げると天井の窓から湯気が逃げる…ボクは昔ながらの銭湯の湯船に手足を伸ばした。そしてガラス戸の向こうで屈託なくじいさんと話すラヂオ湯の若主人に「市営温泉に負けずにがんばれ」と心の中で思わずつぶやいた。

「そろそろ上がろうかー?」

ボクも女湯の天井に声をかけた。

「はーい。」

湯音,桶を片付ける音,がらがらとガラス戸をひく音,女湯から聞こえる音もまた銭湯の風情だ。しばらく時間を置いてからボクも勢い良く湯船を出た。

「お世話さまー」
「ありがとうございましたー。」

ドレミが通過した番台にほっとした表情のひょうきん若主人がぽんと上った。不在の間に台に置かれた料金を木箱に仕分けしてすべらせている。その横を会釈して表に出た。暖簾の外に洗い髪をタオルで巻いたドレミが待っていた。その顔をしみじみ見ると怪訝そうに首を傾げた。

「若い娘に見えるかねぇ。」「え?!」

聞けばドレミは洗髪に忙しくて「長谷のじいさん家に入れない事件」の騒ぎに全く気づいていなかったらしい。

「そう言えばお金を払ったあとずっと番台に人がいなかったみたいだけど…男湯で何かあったの?」「ま,いいか。」
「?」

結局ラーメン屋は見つからず,町外れのスーパーマーケットで半額の札をつけたデリカテッセンの惣菜とチューハイを買った。ブルーラインの途中に今夜の宿にちょうどいいパーキングエリアを見つけた。エンジンを切るとどこからともなく野良猫が車に寄って来た。

2020年追記

ラヂオ湯は2015年7月15日のボイラーの火災によって全焼し廃業したようです。Googleマップに残っている画像などを見るとボクらが訪ねた後に,ご主人がスーパー銭湯としてリニューアルされ,人気だったようなので残念です。

TOPへ戻る