02/栄国橋

Aug, 2009

歳三の強さは戦いに目的がなかったからかも知れません。

そもそも函館府の幹部は,総督榎本武揚はじめ大鳥圭介,松平太郎など戦闘能力もなければ意欲も希薄でした。他愛なく一時の栄華を貪る者はまだしも榎本,大鳥などは明治政府での処遇を念頭に適度に抵抗して穏やかに負けることを考えていたでしょう。函館戦争の意義の虚しさを考えれば,意味のない戦いに殉ずるより保身を目的とする方が常識です。

彼ら常識人にとっては異常人たる歳三の活躍が目の上のたんこぶだったと思われます。しかも官軍にとって新選組は会津藩とともに同志を殺戮し続けた仇敵です。維新後に生きる道はありません。会津藩などは廃藩置県で藩士のすべてが追放され,県名どころか首府機能そのものも山を越えた海浜の田舎町に移転されて,交通から経済に至るまで中央から孤立せしめられました。こんな苛烈な例は他にありません。薩長の怨みの深さがわかります。新選組などは八つ裂きにしても足りないほど憎んでいたことでしょう。一緒くたにされて処刑されるのは真っ平ごめんという榎本らの気持ちも理解できます。

歳三の生き方や思想に共感する人はあまりいないと思いますが,その潔さとストイックな身の処し方に美を感じる人は多いでしょう。彼の戦いはあっけなく終わりが来ます。


函館駅近くの若松町一本木柵あとです。
繁華街に入る前に愛犬タローのワントゥを兼ねて立ち寄りました。


歳三は榎本らによって暗殺されたという説があります。一本木柵の乱戦の最中に幹部らの意を受けた者に背後から狙撃されたというのです。証拠は見つかっていませんが十分あり得る説です。


史実では五稜郭籠城に反対して一本木柵に陣を構え,乱戦の中ですさまじい指揮をしながら流れ弾に当たって即死したとあります。柵の脇には「土方歳三終焉の地」と刻まれた碑も建っています。


しかし「燃えよ剣」のファンは誰もそれを信じていません。史実も暗殺説のリアリティも関係ありません。

1969(明治2)年5月11日払暁,我等が鬼神は敗走してきた兵をまとめると「世に生き倦きた者だけはついて来い」と叫んで,集まった200人近い隊士とともに一本木柵を出て函館山に向かって吶喊します。あまりに何度も読んだのでこのヘンのくだりは暗記してしまっています。

単騎囲みを破った歳三は函館山の官軍陣地前にある「栄国橋」まで辿り着きます。不審に思った守備兵に囲まれて「新選組副長」と名乗り,馬を走らせたところで仰天した守備兵たちの銃弾を全身に受けて息絶えるのです。

歳三が吶喊した道を司馬さんが取材したとすれば,若松町からタクシーなどを使って国道を駅前から函館山の麓に向かわれたはずです(地図参照)。学生時代にボクは函館の商店街で聞き込み調査をしてついに煙草屋のおばあさんから,

「現在の十字街付近に運河が流れていて大きな橋がかかっていた」

という証言を得たのです。

この栄国橋の所在地は亡くなった筆者とボクだけが知っているとずっと思っていました。ところが念のため検索すると,栄国橋は写真も残っていて地元史家の間では有名でした。歳三の最期の地としても知られていて「十字街交番南西角の歩道あたり」とまで調べてあるサイトもありました。がっかり。何ともはや上には上がいるものです。


十字街の夜景です。函館山が正面にそびえています。元町に展開していた官軍陣地の警備線は狭隘な地形と運河を利用したこの場所に間違いありません。いつか函館で時間がとれたときに,自分で古地図などを調べて煙草屋のおばあさんの証言を裏付けたいと思っています。


土方歳三享年35才。いつの間にかボクは彼の年齢を大きく上回ってしまいました。義兄弟の杯をかわしていた年上の近藤勇は歳三のことを「歳さん」と呼んでいたそうですから,ボクも最近は十字街に来る度彼にこう呼びかけます。

歳さん,また来たよ。

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