捨て犬

Apr, 2017

春旅の4日目は島原半島の南端で夜明けを迎えた。春分を過ぎ,太陽は宇土半島の山々の向こうから顔を出し,みるみる早崎瀬戸を赤く照らす。望遠レンズで日の出を撮影するボクの傍らに,愛犬タローがぴったりと寄り添って離れない。

すっかり明るくなったところで早朝の原城跡を散策した。ボクと妻のドレミが島原半島を車で訪ねるのは4度目,勝手知ったるコースばかりである。

海沿いにあるコンビニで朝食を調えてから進路を真北に取って急な坂道を登った。特に予定のある旅ではないが雲仙を越えて島原半島西岸の小浜に出ようとした。長旅の疲れからか少々元気のない愛犬を連れて,島原城や雲仙の観光地を巡るのは避けようと思ってのことだ。

これはそのとき雲仙に向かう国道にある展望台の駐車場でのできごとである。


駐車場の隅でタローの朝食にした。餌は食べ慣れたドライフードを大きなコンテナに入れて,トランクの涼しい場所に積んできている。それを水でふやかして与える。旅先で台がないときはこうして器を持ってやる。食べ終わるとティッシュで口の回りを拭い,歯をこする…年を重ねるほどにかわいさを増した愛犬はもはや目の中に入れても痛くない。 



九州には珍しいババヘラアイスが売っていた。三人で分けて食べ,展望台には行かずただの駐車場でさんざんに犬と遊んだ。満足して車を出そうとしたそのときだった。



道を挟んだ繁みからボクたちの様子を見ていたのだろう,一頭の野良犬が現れて物乞いに来た。毛並みの美しい洋犬だ。首輪がないが捨てられて間もないことは野良に慣れていない挙動から明白だった。

車のドアを開けるとさっと逃げる。人間に捕まればやがて殺されることを本能的に察知しているようだ。 



観光客が車窓から投げてくれる食べ物で飢えをしのいでいる。傍には決して近づいて来ない。

それでもドレミが車を降りて,根気よくいざなったのは他でもない,その犬の乳が張っていたのを見つけたからだ。



捨てられて,人を信じなくなった彼女が危険を冒して物乞いするのは自分のためではない。お腹の子のためだ。

ねえ,食べて。これはとっても栄養がある餌なのよ。



一粒ずつドライフードを地面に置いて声をかけながら誘導する。この程度のトラップを見破れないはずはないのに,犬は何かを感じているのかドレミに着いてゆくようになった。

おいで。えらいね。…ごめんね…ごめんね。



ふだんなら一緒に遊びたいと騒ぐはずのタローもその様子に気圧されたらしい。後部座席から自分の餌が撒かれているのをいるのを大人しくじっと見ている。



さあ,食べてね。

安全なところに餌を盛ってその場を離れると,入れ違いに犬が餌に近づいた。



客観的に言えば,ボクたちがしたのは野良犬が増えるのを助長する迷惑行為にあたるだろう。

だけど,他にどうすることができただろう。


もっと時間をかけて警戒心を解いてやったならばあるいはボクたちに心を開いたかもしれない。だが東京を1200km離れた旅先のことである。連れ帰ることは現実的ではない。車を発進させながらドレミが繰り返し口にしていた言葉をボクも胸の中でつぶやいた。

ごめんね。

ボクらは観光客で賑わう雲仙の温泉街を通り抜けて小浜にある石橋を訪ねた。何度も来た場所だが橋の上でこうしてタローの写真が撮りたかった。ファインダーを覗きながら捨てられていた洋犬を思った。彼女にも飼い主との間にある時期楽しい思い出はあったろうか。


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