12/宴

Aug, 2006
乾杯

コゾウの運転で,石の街に帰ったボクたちを待っていたのは,料理自慢洪母の超ビッグランチだった。


ここはレストランではない。ボクは一行に素早く集中(打ち合わせ)を取った。指令は

「みんな,一人前ずつ食べきること。」


 

ふだん,母やドレミは半人前くらいしか食べないので,こんなときの残りはボクが片付け役なのだが,今日はより強敵が待っている。洪父が封印を切っているとっておきらしき老酒だ。


かなり高級そうな老酒を開ける洪父


「シューサン」

コゾウが数個のグラスを手にテーブルについた。こやつ,今日も容赦する様子は全くない。

「カンペーイ」

来た!コゾウが最初のショットを一気に呷る。洪父がグラスをかざしながらにっこり笑う。

「か,かんぺー!」

ボクも負けずに呷った。強いアルコールが喉を直撃し,老酒独特の甘い香りが顔の内側に満ちた。暑さに弱った肝臓が「マジかよぉ」と弱音を吐く。ずしずしと料理が運ばれてくる。しかも完全に素人離れしている。半日やそこらで出来る料理ではない。きっと,何日も前から準備していたのだろう。

「食うぞー!」

「おお!」

我が一行は大健闘した。

「の,飲むぞー!」

コゾウが目を輝かせて,ボクのグラスが空くのを待っている。


「お前,少しは加減しろよ。武士の情けってのがあるだろう。」

そう口に出して言いながらグラスに老酒が満たされるのを待つ。

「カンペーイ」

わかったよ。大和魂見せてやるぜ。同時に呷る。


「シューサン」

コゾウがまたボトルを持ち上げる。こ,こやつ不死身か。



洪母が最後の大皿を持って挨拶に入ってきた。感謝の気持ちをどう表現すればいい?ボクはやおら大皿の巨大肉だんごを口に頬張って,あまりの美味しさに身をよじるポーズを作りながら老酒を飲み干す。お母さんが嬉しそうに見ている。

「謝々!」

あとは豪快なハグだ。

「東京来てください!今度はボクがご馳走したい。」


その日本語は洪さんが通訳してくれた。

「うんうん」


お母さんは頷くが,この国の現状は,まだそれを許さないことを誰もが知っている。二度と会えない。お返しもできない。ボクはもう一度,強くお母さんにハグした。背後で老酒を注ぐ音がする。


「シューサン」

コゾウがグラスを手渡してくる。マジかよ,こいつ。


ボクはふだん,屋外か換気扇の下以外で煙草をすうことはないのだが,ここでは男たちの親愛の印が煙草のやりとりで始まる。手の中で,器用に箱から2,3本の頭を並べて出し,客に勧める。断るとどれくらい失礼になるものかわからないので,ドレミも母も,「もらって吸った方がいいよ。」とがまんしてくれた。宴になると,乾杯と同じ頻度で繰り返されたが,意外に通気性がいいので助かった。煙草を吸わないゴイックさんなどは,もらった10数本の煙草をポケットに入れて困っていた。

「カンペーイ」

甲高いコゾウの声が天井から聞こえる。ボクの視界は震度7強だ。甘ったるい匂いが自分の顔から立ちのぼる。これはかなりヤバい。今の症状を起こしているのは飲んだ量のほんの一部だ。大半のアルコールは,まだ小腸や門脈で吸収されるのを待っている。それらが酸化されて血液中に流れ出す一時間後くらいに,さらなる山場は来るはずだ。

吐くしかない。

ボクは愛機20Dを手元に引き寄せた。海へ行こう。そうだ。みんなには「海の写真が撮りたくなった。」と言って,ひとりで出かけるのだ。小学生並みに思考能力が低下している。この状態で炎天下を海まで歩けるはずがない。

「シューサン」

満腹したらしいコゾウが何やら洪さんに通訳を頼んでいる。

「シューサン,タッキュウシマスカ。シンセキノトコ,タッキュウ,アリマス」

コゾウ!たまにはいいこと言うじゃないか。

なるほど,スポーツだ。体を動かせば筋肉がブドウ糖を欲する。血管で暴れているアセトアルデヒドを速やかに分解して供給せよと肝臓に要求するだろう。…もちろん医学的に間違っている。

「コゾウ!卓球シュウちゃんと異名を取るオレに挑戦するとはいい度胸だ。飲み比べでは負けたが,ピンポンでこてんぱんにしてやるから,案内(あない)せい!」

洪さんの通訳をニヤニヤしながらコゾウが聞いている。卓球シュウちゃんもむろんはったりである。温泉に行ったときドレミとやる程度だ。しかも彼女はてんで下手ぴーなので,ボクが上達するはずもない。

誰かの肩を借りて歩き,国道沿いの建物に入った。軽くウォーミングアップしたあと,ボクの繰り出した渾身の王子サーブをコゾウが何なく返す。そのリターンをスマッシュしようとして空振りし,もんどりうって石の床に倒れた。もはや目を開けていられないくらいに鉄骨の天井が回る。


建物は何かの工場の跡らしい。機械油の匂いが鼻をつくが自分の発する老酒の甘い匂いよりはましだった。ドレミがボクの代わりにコゾウと戦っているらしく玉の跳ねる乾いた音が聞こえている。さすがに中国の若者らしく,コゾウの卓球はボクらとは次元が違っていた。

そのまま意識が遠退いてゆく。


サイチェン

気付くとベッドに大の字になっていた。この家の人が心配して部屋に担ぎ込んでくれたらしい。小一時間ほども経ったのだろうか。言葉の通じない家人以外誰もいない。頭が割れそうに痛かったが酔いの峠は越えたようだった。スクーターの音がしたので表に出ると許さんだった。母が後ろに乗ってはしゃいでいる。

「シューサン,ダイジョウブカ。」

「大丈夫じゃない」

「バカねえ。あんなに飲んで。」

なんと日本を代表しひとり盃を受け続けて倒れた英雄に対する言葉とは思えない。

アモイに帰る時間らしい。家に戻るとドレミとゴイックさんがハイエースに荷物を積んで準備を終えていた。挨拶を終えるとボクは一番後ろのシートを母と二人で占有して横になった。洪さんたちの二人の息子も一緒なので他の乗客は窮屈を強いられている。だがこめかみの静脈がドクドクと音を立てているほどの頭痛で頭を持ち上げることさえできない。


マンションに着いても書斎の石の床でひたすら横になっていた。一方,ドレミや母は,またもや夜の商店街に出掛けて行った。


深夜になって,ようやく頭痛も和らいだ。体を起こして窓の外を見た。アモイの街が一望できる。真下の道路には車が絶えない。

優雅なリゾートホテルやコロンス島。火の玉のように開発の進む経済特区アモイ,そして土楼や石の街の暮らし。石材労働者や農家とメルセデスをかっ飛ばすビジネスマンたち。一つの国の同じ地域を訪ねたとは,理解し難い光景を見てきた。ほんの一部を見ただけで長い歴史と広大な国土を持つこの国を語ることはできないが,少なくとも,今この国は混乱している。そして紛れもなくその混乱はボクたちの隣国のできごとなのだ。

 


帰国の朝が来た。散歩に出ようと,早くから待っていた母と一緒に街を歩いてみた。足早な通勤の流れを縫うように,露店の食べ物屋さんなどを巡る。母と二人で歩くのは楽しい。



ふと,国姓爺とまつを思った。

「あと,2,3日はまわりたいねえ。」

母がキスデジのカードを交換しながら言う。

「永定の農村だろ?」

えっへへと母が笑う。まつと国姓爺もきっとこんなふうに互いの心がわかっただろう。

マンションに戻ると洪さんが朝ごはんの支度をしている。許さんはまだ旅費の札束をボクに返そうとしていたがとうとうあきらめてお礼を言った。

「シュウサン,オショーユ,カイツケマセンカ。ニホンノ ショーユ,オイシイネ。キット,アモイデ ウレルネ。」


なんて軽薄で楽観的。でもボクは底抜けに明るいこの中国青年と,控え目で芯の強い奥さんがとても好きだった。



長い間あんなに親しくしていたのに,もうこの夫婦と会うことはないだろう。

コゾウが眠そうな目をこすりながら迎えに来た。別れのときだ。



アモイ国際空港

ありがとう。さようなら,アモイ。
さようなら,中国の友たちよ。


涙の別れから数時間後,ボクたちは夕暮れの中央道を関空からタローの待つ東京へと向かっていた。



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