タロー行進曲2007/1才2007/4/4
まだ,真っ暗の朝4時。パパが目を覚まして何やらナビを動かしてます。あ,車が動き出しました。ボクは眠いのでママともうしばらく寝ます。

空が晴れているので,太平洋に昇る朝日を見ようと思ったが,この時期では足摺まで戻らなければ見られない。あまり時間がないので桂浜に走ることにした。東の空が白み始めた頃,まだ開いていない駐車場の前に車を停めて浜に走った。当たり前だが人っ子一人いない。こんなことができるのも放浪の醍醐味だ。

桂浜

「タロー,じゃまだぞー。海を撮るんだから…,あ,しょうがないなぁ。どいてどいてー。」

じゃばじゃばじゃばー。海でも泳げるタローです♪

「タロー,お願いだからごろごろはしないでね。はい,クッキーあげるから」
「わー,そこどいてくれー。日が昇るぞー!!」

桂浜の日の出…タロー,フレームイン(T_T)


日本の夜明けは近い。



十数年前にペアで買った通称青ジャン。

春の旅行とお花見の時期くらいしか着ないので,超長持ちしていまだに現役している。


「あーあ,タロー砂だらけ。どこかで水もらわないと。」

「それより川で泳がせちゃえば手間がないぞ。」

浦戸大橋(無料化していた)を渡って海沿いの黒潮ラインを東に向かった。高知市を外れた頃に,通勤渋滞に巻き込まれてしまった。夜明けの桂浜でたたき起こされたママとタローは爆睡に入っている。

眠気覚ましのために道の駅に寄ると,開店前の農作物直営所に地元の人が列を作っている。助手席のママは一度目を覚ましてそれを見たが,よほど眠いのか意識がはっきりしないまま,また眠りに落ちた。

「もう少し寝かせておいてやろう。」

と,タローとボクは道の駅に続く海岸で長い散歩をした。通勤渋滞が解消するのを待っているのだ。

車に戻ると袋いっぱいのトマトを提げたママが,さかんに悔しがっている。

「なんで起こしてくれなかったのよぉー。いいのはほとんど売り切れ。お一人さま3袋限りのトマトだけほら♪」

どうやらボクたちが散歩に出たあと目を覚まして,「すわ!ぬかった」とばかり,直売所に駆け込んだらしい。

「そんなに買ってどうすんだよ。」

「お土産お土産。おばあちゃんとか喜ぶよー。」

なるほど,もうクーラーボックスも空いているし,今夜遅くには世田谷の義祖母宅の玄関に届けられる。


「はい,朝ごはん」

ママが公園の水のみ場で洗ってきたトマトを差し出した。朝日を反射したトマトは宝石のように光っていた。


美しい武家屋敷の佇まいが残る安芸の町並みは以前に訪ねたときと変わっていなかった。観光客用の無料駐車場でタローの遅い朝ごはん。

野良時計

明治の中ごろ,大地主の家に生まれた畠中源馬という人が,アメリカ製の掛け時計を分解しながら,独学で研究し,分銅から歯車までのすべての部品を一人で作り上げたと言われる。以来120年間,正確な時間を刻み続けていたが,管理を引き継いでいた孫にあたる人が亡くなった2004年11月に止まってしまったそうだ。時計を動かすことは大変なことらしい。この日も時計は誤った時刻をさしていた。


「叱られて」の歌碑。


小学校で習った童謡の中でボクがいちばん好きだったのは「雨」という歌だ。

雨が降ります 雨が降る 遊びにゆきたし傘はなし 紅緒の木履(かっこ)も 緒がきれた

歌詞もメロディもなんて暗いんだ^^;

作曲者の広田龍太郎が,太平洋を臨むこの明るい町の出身とはにわかには信じられない。「叱られて」「浜千鳥」「春よこい」「雀の学校」「靴がなる」…ボクの年代の人には,彼によって,音楽の嗜好が決定的になった人もけっこういるのではないだろうか。ボクなどは,絵の色彩から文章の好みまで強い影響を感じている。外国人にはどうにも理解できない世界だろう。


歌碑にイラストを描いている漫画家はらたいらも安芸に近い香美郡土佐山田の出身。


そう言えば,絵だけでなく,ボクの写真の好みも広田系?↓


武家屋敷を散歩する。
関が原の後,土佐へ入国した山内氏の家老五藤氏が安芸城跡に屋敷を構え,周辺に家臣を住まわせた。土居と呼ばれるその屋敷町がそのまま戦時には城壁の役を果たす中世独特の造りだ。



通路は狭く入り組んで瓦練塀と呼ばれる石の塀が張り巡らされている。



美しい家並を見ていたらスケッチがしたくなった。その間にママにはタローを川に連れて行ってもらうことにした。朝,桂浜で泳いだので,タローの長い毛は潮でごわごわになっている。



駐車場で待ち合わせることにした。ところが

「携帯の電池切れてる。」

「あー,私のもあぶない。」

「困ったなぁ。どうやって連絡とる?」

宿をとっていなかったので,車のバッテリーにつなぐ充電器はデジカメやストレージの充電が忙しくて携帯まで手が回らなかったのだ。

「じゃあ,ここに」

ママが駐車場の植え込みを指差す。

「早く戻った方が書き置きしましょう。」

「OK」

モバイルIT全盛の時代に書き置きで待ち合わせとは我ながら風流である。


車で上流に出掛けるママとタローを見送ってから,飲料水と予備の筆洗水を兼ねてペットボトルで水を買おうと思ったら,財布を車に忘れていた。仕方ないので水を汲んでおこうと水のみ場に向かう。野外スケッチ用の道具立ては少しでも重量を軽くするために工夫している。水を運ぶ容器はテイクアウトのうなぎについていたタレのボトルを何年も愛用している。ついでだからと画材をチェックして,さらにたいへんなことに気づいた。

カッターがない!!

旅の途中,バッテリー液の容器を開けるのに使って,雨だったのでそのままドアポケットに置いてしまったのだ。



鉛筆は10本以上あるが,かろうじて,芯の出ているのは2Bと6B,それにちびたBがそれぞれ一本ずつしかない。

無一文で鉛筆三本のへっぽこ絵描き,
いざ!出陣!!



武家屋敷の外れで一枚目。久しぶりなので,屋根の位置関係に気をとられて,線が萎縮気味だ。

武家屋敷(SM大/30分)



思い切って桜や松がのびのびと枝を伸ばす安芸城跡の石垣を描いてみた。なんだか手が感覚を思い出してくる。

安芸城大手門跡(SM大/20分)



その頃,ママとタローは…


やっほー♪じゃばじゃばじゃばー♪ ママー!もっとフェッチしてー♪ うっひゃー♪楽しいなー♪

三枚目。調子が出てきたが,時間も鉛筆も残り少ない。

安芸の土居(SM大/25分)

これを描いてるとき,後ろから
「ほーら,見てごらん。きれいだよー。」

と,若いパパの声がして,小さな子ども二人に囲まれた。野外で描いてるとそういうことはよくあることで,あまり愛想良くすると際限なく話しかけられて絵が進まなくなるので,にっこりする程度にしておかなければならない。

にっこり…ん?

「Are you a painter?」

話しかけてきたのはフリルだらけのワンピースに青い目の女の子だった。

「Don't talk to …」

とかなんとか彼女をたしなめる小さなお兄ちゃんも真っ白な肌にそばかす。

「Mam…!」
「じゃましたらアカンでしょー」

と,後ろからにこにこ登場した金髪のママは関西弁だった。

4人は楽しげにこの絵の奥右側の武家屋敷に入ってゆく。子どももお母さんもばりばりおしゃれしてたところから察するに,大阪あたりに住んでいるあの家の息子が妻子を連れて里帰りという感じだろうか。

うーむ(^^;)路地の風景とのギャップがすごい。



鉛筆のぎりぎり最後を使って四枚目。三枚目からほとんど振り返っただけの場所だ。

瓦練塀の路地(SM大/20分)



結局,二人ともほぼ時間通りに駐車場に戻ったので,書き置きは活躍しなかった。

描き疲れと泳ぎ疲れの親子,しばし休息の図→
恐ろしく整理整頓された車内の荷物がご覧いただけるだろうか。

ここは東京からゆうに800km以上離れている土佐安芸の町。今日中に戻るつもりである。

「そろそろ帰るか。」

来た道を西に戻って南国インターを目指した。もう一箇所寄っていきたい思い出の場所がある。



岡豊城跡は桜の中だった。初めて土佐を訪れた夏,ボクはここから歴史探訪を始めた。長曽我部元親や国親の墓を探し,武市半平太の生家を訪ね龍馬脱藩の道を辿った。当時ママは十代だったか,日本史には何の興味もなかった。ただ,旅とはこういうものだと思ってついてきたのだろう。



それが今では関ヶ原や維新回天を子どもたちに熱く語っているのだから面白い。



山城に風が立って俄かに空が曇ってきた。花見客たちが一斉に引き上げ始めたと思う間もなく冷たい雨が落ちてきた。ぐずぐずと旅の名残を惜しむボクに「そろそろ高速に入りなさい」と空が言っているようだ。


高知道に入ると,電光掲示板に「ユキ走行注意」とある。故障かと思っていたら,峠のトンネルを抜けると吹雪だった。こりゃあ,よい土産話ができたと思っていたら,この日,母の待つ八ヶ岳も雪で,東京でもみぞれが降ったらしい。


高松道に入ったところで,いったん高速を出て,セルフのさぬきうどんを食べに行った。



セルフの店は,一昨年,初体験してはまった。ご当地独特の雰囲気だ。



瀬戸大橋。
交通量があまりにも少ない。



寒さと風も手伝って与島PAにもほとんど人影はない。エリアの端っこでリードを解いてやると,タローがついっと歩き出す。



まるで案内するように,振り返りながら歩いていくのでついて行くと…



村の集落に出た。橋脚のできる前はどんな風景だったのだろう。

よーし,この旅最後の探検散歩だー!



夕日を求めて村を歩くと,PAから直接利用できる観光施設「フィッシャーマンズワーフ」があった。総工費40億円,開業当初は観光客でにぎわったようだが,1月に廃業した。甘い需要予測に基づいた本四架橋の夢の跡。


施設は再び10億円をかけて足湯やベコニアガーデンなどを整備し,別の会社が4月1日から営業再開しているらしい。つまり,この日はオープン4日目の春休み…のはずだが,人っこひとりいない。初年度40万人を見込んでいるらしい。おそらく誘致や周辺整備で公的資金もずいぶん使われているだろう。



高松から親子4人家族で遊びにくると,往復の通行料金だけで6000円,入場料が4400円だ。果たしてお客さんが来るのだろうか。…たぶんプロジェクトの責任者は算数の勉強が足りなかったのだろう。周辺のホテルやレストランはとっくに廃墟となっている。



いけすがあったらしい一角に空しい看板^^;



瀬戸内海の夕日が美しいが,大橋はたぶん法律上最低限の灯りしか点灯していないので,シルエットに沈んでゆくばかりだった。


パーキングエリアに戻って八ヶ岳の母に電話した。

「遅くなっちゃいました。お土産届けに寄りますけど,真夜中過ぎると思うからどうぞ寝ててください。」

「なーんだ。夕飯いっしょに食べられると思ったのにぃ。いいよ。何時でも待ってるよ。」

午後7時に与島を出て,ひたすら交代で運転を続けた。八ヶ岳到着は午前2時だったが,母はやはり起きて待っていた。あたりは小雪がちらつく冬のような夜だった。

「夕飯にと思って炊いたんだけど持って行きなさい。」

母が持たせてくれた竹の子ご飯はほかほかと温かかった。

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