高粱畑の椅子


ある愛の物語
Oct, 2005

もくじ

1/伊東屋

2/三六連隊

3/前線

4/結婚

あとがき


1伊東屋

富子のところに,銀座の老舗の文具店「伊東屋」で「アルバイトをしてみないか。」という話は誰が持ってきたのか定かではないが,彼女は軽い気持ちで引き受けた。好奇心の強い年頃だったのだ。1930年代始め頃のことである。

富子の生まれた閑谷家は,まだ江戸っ子気質が色濃い東京の中心にあった。八人の兄弟姉妹の長女だったが,父の教育方針は「女が学問をすると腰が重くなる」という今では考えられないものだった。しかし,当時ではそれが普通だったのかもしれない。富子は古典が好きな文学少女だったので,隠れてこっそりと本を読んだりはしていたが,父に逆らってまで進学する気はなかった。美しい文房具を扱う「伊東屋」でのアルバイトはそんな富子にとって渡りに舟の話だったのだ。

勤め始めて暫くすると,富子の明るい性格と陰日向のない働きぶりは,すぐに上司の目にとまって「本採用したい。」という運びになった。富子は特に仕事が面白かったわけではなかったが即答でこの話を受けた。それは職場で時々会う同僚で,ひどく姿勢の良い青年に心惹かれ始めていたからである。青年は名を道夫といい,学生時代に国体に出場した程の水泳の選手であったため,しなやかで美しい筋肉の持ち主だった。

富子が正社員となってから二人は親密になっていった。というのも,やはり同じ職場にいた道夫の大の親友須崎が,富子の気持ちを知って積極的に二人の仲を取り持とうとしたからである。「伊東屋」の若い社員たちは,須崎のリーダーシップのもと,グループ交際が盛んだった。週末には奥多摩へハイキングに行ったり,新しくできたダンスホールに行ったりして青春を謳歌していた。景気もよく,日本中が明るい時代だった。

だが,その裏で日本の,そして人々の小さな幸せを破滅に導く陰謀は,増長した軍部の中で始まっていた。昭和11(1936)年2月26日,陸軍将校ら1400人が,二人の職場にほど近い首相官邸や警視庁を襲い,高橋是清蔵相らを殺害した。

2-26事件である。

2三六連隊

昭和12(1937)年,北京郊外で蘆溝橋事件が勃発。最初「北支事変」と呼ばれていた戦争は「支那事変」という名の全面戦争へと発展した。フィアンセに毛皮のお土産を約束して,北支に出征した須崎は二年後,「ノモハン」のロシア軍との戦闘で戦死した。道夫も軍需産業に就くことを余儀なくされて「伊東屋」から「品川電機」に転職した。開店休業状態になった「伊東屋」に残された富子も留まる理由をなくし,馬喰町の薬品会社へ就職したため,二人が会うことはなくなってしまった。

そして翌年9月,富子のもとについに恐れていた知らせが来た。道夫に召集令状が届いたのである。職場も住所も違う富子が道夫の出征式に出ることはかなりの勇気が必要だった。しかし,その朝,品川電機が主催した出征式の見送りの中に,道夫は旗を持った富子の姿を見つけた。万歳の唱和の中,敬礼して踵を返した道夫の背中に向けて,富子は千切れるように旗を振った。

道夫は本籍地の福井からの召集だったので,鯖江の陸軍三六連隊に入隊した。陸軍と海軍の確執を知らなかった彼は,入隊式で「船の方が恰好いいので海軍に行きたかった。」と言ったため,顔が曲がるほど殴られた。

兵隊審査もさんざんだった。水泳で鍛えた彼の肉体は,短距離走でも長距離走でも他を圧倒した。ところが,都会育ちのために,背嚢をしょって銃を担いだ「フルメタルジャケット」の状態では一歩も走れず,仲間たちの後塵を拝するどころか,全くついていけなかった。練場一周のコースは,兵舎の陰になるところが多いので,兵舎と兵舎の間で教官の目が届くところだけをよろけるように走り,死角に入るとほとんど登山のように歩いた。教官は怒りを通り越してあきれていた。東京の旧制中学を卒業しているため,学科試験は当然一番であったが,審査は「二種乙」という下から二番目の結果だった。

「炊事班を命ずる」

という隊長の命令も,すでにスポーツマンとしてのプライドを先の行軍で打ち砕かれていた道夫にとっては,さほどのショックにはならなかった。仲間が一口で飲み込む茶碗飯を,5分もかけて噛まなければ食べられなかったのだから仕方ない。

午前二時に起きて,朝食の準備をし,昼食の準備をしたあとに仮眠して,また昼食後は夕食の準備に追われる炊事班には思わぬ役得があった。将校たちのために炊く白米やごちそうの余る分は炊事班の口に入るのだ。もちろん,自分たちが準備するのだから,余らないなどということはありえない。麦飯を飲み込んで,教練する仲間たちには,悪いと思いながらも道夫は舌鼓をうつ食事が続いた。彼のしなやかな筋肉は次第に脂肪に埋まり始め,精悍だった風貌はふくよかに変わっていった。

これまで東京から入隊した優等生として仲間に敬遠されがちだった彼だったが,コミカルに変わった外見と持ち前の明るさが,しだいに隊に受け入れられていく。人懐っこい性格と誠意ある言動が仲間たちに愛され,上官にも可愛がられるようになった。特に連隊生え抜きの准尉が彼を可愛がってくれたことは,道夫の生死を大きく左右することになる。

その准尉から最初に受けた恩は小さなものだったが忘れられない。それは隊の係が移動する際のことだった。道夫には

「ラッパ係を命ずる。」

という辞令が下った。陸軍では「1に通信,2にラッパ,3,4がなくて5に炊事」と言われる。蔑まれる係の代表だった。しかも「5に炊事」から不名誉の2番目に昇格してしまっているではないか。道夫はさすがに情けなくなった。

「貴様の口はラッパの唇だ。」

道夫の抗議を受けた上司は笑いながらそう言ってとりあわなかった。

准尉は道夫ががっかりしているという話を聞いて,軽機関銃の第二補助という栄えあるポストに口をきいてくれた。道夫は感激して准尉の部屋に挨拶にいった。

「第二補助の出る幕は実戦ではほとんどないよ。」

礼を言って退出しようとした道夫に准尉は無表情で言った。軽機関銃は通常四人一組で歩兵部隊の先頭を進み,第一射手と弾を運ぶ第一補助はさらに花形だが,最も危険が大きい部署の一つでもある。もしかしたら,より危険の少ないラッパ係を最初に指示していたのは准尉だったのかもしれない。

「貴様は北支に征け。一年で帰れるよ。」

准尉から道夫が受けた最後の命令だった。自らは激戦の中支に出征して戦死した准尉は,いちばんかわいがっていた部下を,しかし連れてはいかなかったのだ。

道夫は北支の前線に駐屯する四千人の中隊に補助要因として送られたが,この部隊は一年後に一時復員することが決まっていた。陸軍の中隊は常に四千人を単位として,例え一年後に撤収する部隊でもきちんと補充することになっていたのである。中支に征った仲間は一人も還らなかった。

3前線

激戦区ではない北支といえども,前線は凄まじかった。

道夫は卒業後の応召だったので,連隊での訓練と一度の筆記試験を受けただけで,もう一等兵として前線に来た。さらに戦地でもすぐに試験のチャンスが来て上等兵に昇進できる。だから一般の二等兵の中にはずっと年上の部下がたくさんできた。彼らは「古兵」と呼ばれて圧倒的な実戦経験を持っている。最前線で耳をつんざくような音に耳をすませて,弾丸の向きを正確に知る能力も経験から生まれていた。

ひゅんひゅんと銃弾が飛ぶ最前線を

「この音はこちらに向かっている弾ではない。」

と,悠然と行軍の先頭を行くときがある。一転,彼らが地に伏せて

「動くな!」

と,道夫たち上官に目配せするときは危険である。そんなとき行軍するのは責任者たる小隊長と経験の浅い補充兵だけだ。戦死者は多くこのときに倒れる。小隊長は作戦の度に何人も変わっていくのである。

その日も古兵の合図で道夫は高梁畑に突っ込むようにして伏せた。それしか生きる道はない。立ち上がれば,敵弾は確実に頭を撃ち抜くだろう。冷たく黄色い土にまみれながら,彼はいつものように死を覚悟した。春の遅い北支那の荒れた畑にも,陽光だけは暖かく降り注ぐ。大きな緑の穂が揺れる。その向こうの青空に,旗を持った富子の姿が浮かんだ。あるいは土埃にしばたたかせた瞼の裏に焼きついていた姿の残像なのかもしれない。

…もし,平和な日が来たら,そしてそのとき俺が生きていたら,富子と一緒に春の野に揺り椅子を出して座ろう。亡くなった准尉がいつもたばこをくゆらせながら笑っていたあんな椅子だ。富子はきっと,古びた本を出してきて気持ちよさそうに読み始める。そして,ふと気づいたように顔をあげて

「うつほ物語なんて,こんな日にはあわなかったわね。」

と,眩しそうに笑うだろう。…

「前進するぞ」

古兵の声がして道夫の視界から椅子が消えた。みどりの高梁畑がどこまでも続いていた。

道夫の命にとっては幸運な出来事が起こった。最前線でマラリアにかかったのだ。

マラリアは三日熱とも呼ばれ,三日周期で高熱が出る。二日は元気なのに一日は立つこともできずに寝込む状態が繰り返されるのだ。行軍の多い戦場では最も始末に悪い病気のひとつなので,道夫は前線を離れ後送された。日本の占領下にある地方は治安が良く,道夫は何の障害もなく無事に北京まで送られた。医療環境も整っていたので,彼の病状はすっかり回復し,まもなく前線に復帰できる状態になった。再び北支に向かう前日,道夫は万里の長城を観光した。中国人はひっそりと姿を見せずに,ただ悠久の歴史を超えた巨大な建造物だけが彼の前にあった。道夫は彼が手にかけた八路軍の兵士を思いだしていた。

マラリアで後送される半月ほど前のことである。八路軍の罪人たちは,おそらく冤罪に違いない罪で捕まり,何も白状せずに裁判にかけられた。自分たち自身の墓穴を掘らされて,運命をあきらめ,その前に立つ彼らを処刑する役割は誰が指名されるかわからない。その日選ばれたのは道夫の他に三人だった。穴の前に立つ八路軍の兵士たちは目隠しをされて全く抵抗する様子もない。道夫はできることなら,逃げ出したかった。しかし,兵士たちは正式な裁判で有罪が確定している。命令を拒否すれば,軍法会議にかけられて,今度は道夫が三人の戦友たちと穴の前に立つことになるだろう。道夫たち四人は目を瞑って銃剣を握りしめた。

道夫は万里の長城から北の空を眺めた。戦場では恨みが恨みを生んでいく。多くの日本人もまた,同じように殺されていっただろう。彼は学生時代から中国史が好きだった。夢中になって本を読み,広大な大地にあこがれていた。

「何のための殺し合いだ。」

道夫は心の中で叫んだ。最前線を離れると,誰もが同じ葛藤に苦しむのだ。そして,明日戻る前線には,その地獄が待っている。

しかし,道夫は最前線に戻ることはなかった。

前線に戻る途中で激戦にある自分の中隊との連絡が取れなくなり,別の後方部隊で足止めを命じられた。ようやく連絡がついて合流したとき,隊は復員の準備に入っていた。道夫は1940(昭和15)年,諦めていた生還を果たした。

4結婚

支那事変もこの頃までは勝ち戦で,東京の正月は平時と余りかわらなかった。門松も取れたある日,薬品会社で働く毎日を続けていた富子のもとに,道夫の復員の知らせが届いた。大陸からの季節風が冷たい,晴れた午後だった。女たちにとって,戦場に赴いた夫や恋人の死は,出征のその日に覚悟される。少なくとも表面上は皆,そうしていた。富子も道夫の後ろ姿に旗を振った朝,永遠の別れを覚悟していた。だから道夫の復員の知らせに会っても,暫時ただ呆然としていたが,夜になってから,急に突き上げるような切なさを覚えた。

築地のおじさんと呼んでいる道夫の叔父を通して,彼から交際の申し込みの電話が入ったのは復員からまもなくだった。その頃には富子もすっかり落ち着きを取り戻して,三年ぶりの再会をした。最初に富子が目を見張ったのはすっかり丸くなった道夫の顔であった。機敏な草食動物のように美しかった筋肉もふっくらとしていた。しかし,その表情や目の光りに少しも悲惨な戦争が陰を落としていないのを見て,富子の口許は自然に緩んだ。

二度目の逢瀬は日比谷公園だった。道夫は噴水を眺めながら何かを迷っていたが,やがて

「行きましょうか。」

と,言って,銀座を抜け,中央通りの並木道まで連れて行った。するとここでも少し首を傾けて

「行きましょうか。」

と,富子を促した。そして今度は宮城前を歩いて芝生の広場まで来ると,ようやく立ち止まった。

「陽のあたる草原に椅子を置いて,二人で本を読みませんか。」

あまりにも唐突で,富子にはそのことばの意味がよく分からなかったが,その声の言いしれぬ温もりが彼女の心の中に満ちた。富子は黙って頷いたらしい。それがプロポーズとその返事だったらしいと富子が理解したのは,日をあけずに届いた結納の品を見たときだった。

道夫の復員から二ヶ月ちょっとの桜の頃に二人は式を挙げた。小さなアパートを借りて,翌年の暮れには男の子が生まれたので,阿佐ヶ谷の一戸建てに引っ越した。

二人目の男の子が二歳になる年の二月,再び再び道夫に召集令状が来た。敗戦はもはや誰の目にも予想され,応召は,決死の激戦地帯へ行くことを覚悟する時期だった。ときどき知る玉砕のニュースがほんの一部であることも皆,知っていた。それでも,富子は夫が生きて還るような気がした。

船を待って,二宮の陸軍基地にいた道夫は,いよいよ南方へ向かう前に,一時帰宅を許された。群馬県に疎開していた富子のもとに電車を乗り継いで辿り着いたのは,夏も盛りの8月14日だった。

「当分会えなくなる。」

八高線のホームで道夫は言った。富子は夫の瞼に,自分の笑顔だけを写しておこうと思った。列車が見えなくなるまで見送ると,疎開先の粗末な納屋に帰り,いつものように水芋を干し始めた。道夫の生還を信じている。水芋が不意にかすんだが,富子は血が出るほどに,唇を糸切り歯で噛んだ。

翌15日の朝暗いうちに,富子は大事にしていた最後の着物を持ち,妹を連れて,栃木の縁者の家まで買い出しに出かけた。

玉音放送を又聞きしたのは,この知り合いの農家でのことだった。

あとがき

このお話は,妻ドレミの祖父と祖母が傘寿と喜寿を迎えたお祝いの会で,孫たちが演じた寸劇のために書いた脚本をリメイクしたものです。ドレミは祖母のリクエストで「チゴイネルワイゼン」を弾くことになっていたので,「祝う会」実行委員長のボクとしては,対抗上,二人のほのぼのとしたラブストーリーを劇に仕立てようと考えたわけです。祖父母には内緒の企画だったので,取材というわけにはいきません。そこで,その年の敬老の日に訪ねた際,「アルバムを見ながら二人の思い出話を聞かせてください。」と持ちかけたのですが,問わず語りに二人が語った物語にボクは驚き,時を忘れて聞き入ってしまいました。

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