OUR DAYS2006年2006.9.18

雨の休日、なおみは夏物衣類の片付けに余念がない。シーツなどをたたむ段になり、ずっと作業にまとわりついて遊んでいたタローは一時キッチンに閉じ込められることになった。

1

「ボールで遊んでな」

閉じ込める前にボールを与えたのは本当に何気ないいつものことだった。いたずらしないよう先手を打っておもちゃを与えておく。タローは早速お気に入りの青ボールに飛び付いた。生徒が彼にくれたそのボールはテニスボールより一回り小さな特殊ゴム製で、噛み心地良さそうな適度の柔らかさとずっしり感がある。

さて、夏物シーツの片付けは15分ほどで終わりキッチンの戸を開けるとタローがぶんぶん尻尾を振って飛びついてきた。15分でも8時間でも同じ喜び方である。あまりに興奮したのか咳が止まらなくなってなおみが落ち着かせようとタローの首を抱いた。

閉じ込めるときいっしょに置いたトイレに少量のオシッコ。排泄を促すために閉じ込めることもあるので、トイレをすれば出してもらえると思ったのだろう。その横にピンクボールが転がっている。ん?ピンクボール?ようやく異変に気付いた。

「タロー!青ボールはどうした!」
「まさか!タロー青ボールは?」

懐中電灯片手に床をはい回り生ゴミのゴミ箱までひっくり返して大捜索が展開された。だが…。

2やはり青ボールがない!!

タローは誤嚥癖はない。ティッシュペーパーや100円ライターを口に入れてもさんざん噛んでくちゃくちゃにすると吐き出しているのだ。

「油断していた…。」
「はずみで飲み込んじゃったのかも…。」

タローをひっくり返してお腹をがしがしとさぐってみたが胃がどこなのかもわからない。

電話して動物病院に行くと、主治医と助手がロビーで待っていてすぐにレントゲン室に連れて行かれた。顔面蒼白のボクたちに待合室の愛犬家たちが気の毒そうな視線を送る。
特別診察室に呼ばれると、PCのモニタにタローの胃が写っていた。

「この曲線が怪しいと思われるのですが胃壁の線かも知れません。」

画像は原寸大に調整されていて、持参したピンクボールをモニタに重ねてみることができる。写っている円弧の一部はピンクボールより半径が大きかった。

「これは違うと思います。」
「では、こちらは」

3の角度からの写真にも疑わしい曲線が写っていたが、やはり青ボールとは大きさが合わない。結局、誤嚥を特定することはできなかった。

「胃にぷかぷか浮いている間は全く平気なのですが、何かの拍子に腸に流れて詰まれば突然容態が悪化して手遅れになります。ボールの場合、口から取り出すのは窒息の危険が大きすぎて無理です。開腹手術の前に胃カメラを入れて確認することができますが、開腹費用12万円の他に4万円が必要です。」
「お、お願いします。」

他に返答のしようもない。

「では、今夜から水以外は与えず、胃をからっぽにしてください。明日の午後カメラを入れて、ボールを発見したらすぐに開腹します。」

帰宅してもボクもなおみも呆然とするばかりだった。

4「青ボールはどこにいったんだろ。」
「タローが話せればいいのに。」

何も知らないタローがちゃかちゃかと歩き回る。

「タロー!安静にしてないとダメだ。じっとしてろ!」

…と言ってもタローにわかるはずもない。首をあげてくんくんと何かのにおいをかぎだした。
その瞬間、ボクの頭に何かがひらめいた。

「タロー!!ボールはどこだ。取りにいってみろ。」

タローが鼻をひくひくさせながら歩き出す。明らかに遊び相手をしてやらないので、ボールをさがしはじめた様子だった。タローに先導させてついていくと玄関に行くドアの前に立った。ドアをあけるとタタキに下りて傘たての下をくんくんする。ボクはもう確信を持って傘たてをどけてみた。

…ころり。

「あ、あったー!青ボールあったー!」

ボールにじゃれつくタローの前にボクとなおみはへなへなとしゃがみこんだ。

…キッチンに閉じ込められてボールで遊んでいるうちに何かの拍子に玄関へのドアが開いたのだろう。ボールが傘立ての下に転がってしまう。盛んに鼻先を突っ込むが届かない。きゅんきゅんと鳴きながらうろうろするタローの目が靴箱の上に置いてあったお散歩用のピンクボールを発見する。前足をかけて首を伸ばしても「NO!」の声がかからない。ラッキー!ぱくっっ!…その表情が目に浮かんでボクとなおみは力なく笑った。

冷静に考えればピンクボールに疑問を持つべきだった。うろたえたボクたちは密室を疑うことなく室内をはいずり回っていた。病院にボールを発見したことを電話するとタローがよちよちだった頃から担当している若い女医は、自分ことのように喜んでくれた。

ようやく落ち着いたなおみが

「タロー!もう!大騒ぎさせてー!」

と抱きつくとタローがきょとんと首を傾げたように見えた。…確かに大騒ぎしたのはボクたちだけでタローは何もしていない。
それでもボクたちの安心が伝わったのか、散歩に出るとやたらにはしゃいで跳びはねた。見上げると真っ赤な夕焼けが東京の空に広がっていた。

ああ、手術にならなくてよかった。

ボクはタローを促して軽く走り出した。オレンジの光の中でボクとタローの影がなおみの影を追い越した。


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