OUR DAYS2010年2010/10/4

日曜補習を終えてから、膝の手術で入院中の伯父を見舞った。春に「競馬しながら酒宴」したあの伯父である。

「わっかまっつさん♪ご面会よ。かっわいーいお客さん。」

と、看護婦さん。あ、いや、最近禁煙で太っちゃって、かわいいっすかねえ…って、え?ボクのことじゃない?あ、そう。

伯父はあまりに元気でぶったまげた。看護婦さんの応対からも病室の伯父が明るく人気者になっていることが伺える。

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スタスタと歩いてボクたちを談話室に案内する。「心配している母に写真を送るから」と、カメラを向ければ手術の成功をアピールする「OK!」ポーズ。いやはや90才である。

入院の話から発展して伯父が若い頃の闘病生活の話を初めて聞いたがこれまたぶったまげた。ハルピンの前戦で結核にかかって後送され、中国や日本の病院、療養所を転転としたそうだ。そのうちに、伯父の所属していた部隊はインパール作戦で全滅した。

「人間、何が幸運かわからないよ。」

豪快に笑う。その後、復帰した水産加工会社で今度は民間人として樺太に渡り終戦を迎えた。

「じゃ、抑留されたんですか?」
「そうだよ。」

しかし民間人は技術や知識を持っていたこともあり、比較的優遇された抑留生活だったようだ。たとえば伯父のような商社マンをシベリアに送ってしまっては樺太の工場や会社がたちゆかなくなる。野蛮で凶暴な日本軍の行動に対し、ロシア軍は紳士的で軍の統制も良くとられていたこと、それでも下士官たちは教育を受けていないのでかけ算すらできなかったこと、伯父がロシア軍と交流した話のひとつひとつが息を呑むほどリアルな歴史の証言だった。が、再々再度ぶったまげるのはまだ早かった。

「叔父さん、まさかロシア人とはロシア語で会話されたんですか?」
「そうだよ。」

なおみの質問に答えた伯父がロシア語をぺらぺらとしゃべり始めたのである。

「ほえー」

ボクもなおみもあっけにとられるばかりだった。

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伯父の話に引き込まれてしまって、タローの「車で留守番」がずいぶんと長くなった。日曜の駐車場はほとんど空っぽだったので、むくれているタローとしばらくボール遊びをさせてもらった。その間もボクとなおみの頭からは伯父の話の衝撃が去らない。夕暮れの駐車場は金木犀の濃い香りに包まれていた。 

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