深夜になると遊歩道の人通りも絶えるので、ときにはちょこっとボールフェッチをすることがある。先日もタローの熱い視線に押し切られ、リードを解いたところで遠くに人影が見えた。
やり過ごすためにいったんリードをして引っ張る。わざとタローが抵抗できる程度の強さで引き、「こらこら、わがまま言ったらダメだぞー。」的な演技をして、人が通り過ぎるのを待つ。主従でじっと立っていては通行人も気味が悪いだろう。その不自然さをコミカルに解消するための方便である。
ところがどうしたことか、件の人影は真っ直ぐずんずん近づいて来て、とうとうボクとタローの間に割って入り、リードを掴んで立ち止まった。なおみくらいの年令の女性である。
「こうするのよ。」
いきなりボクにそう言って、タローには
「つーけ!」
と命令しながら、自分の腿をパンパンと叩いた。タローもボクもまさに目が点である。
「おかしいわね。たーて!つーけ!!」
パンパンパン!派手な音を立てる太ももをタローが呆然と見上げている。
「あなた、なめられてるんじゃない?ダメよ、甘やかすばかりじゃ。」
「は、はあ。」
「つーけ!」
今度は強くリードを引っ張ったので、困ったタローが立ち上がり、ようやく脇に立つと、彼女は満足げにリードを絞り、真っ直ぐ進行方向に気をつけの姿勢で立った。それから
「つーけ!」
と、言いながら歩き出そうとするが、もちろんタローは動かない。
「あら?変ねえ。つーけ!」
また強くリードを引いたが今度はタローも動かない。座り込んで引きずられないように耐えている。
「おっかしいわねえ!何でついてこないんだろ。」
ふつう知らない人にはついていかない。
彼女に悪気があるわけではないので口には出さなかった。悪気はないが、あまりにも有難迷惑である。世の中には変わった人がいるものだ。
「遊んでくれてどうもありがとうございました。さ、タロー、アップ!」
「ふぐぐぐ」
ほっとしたのかタローはヤケに素早く立ち上がり、くるりと反対側に回ってボクの足元に立った。
「それじゃ、失礼します。」
あっけにとられている彼女の手からリードを受け取る。
「ヒール!」
後ろも見ずに並んでずんずん歩き出した。
☆…☆…☆…☆
「タローは英語しかわからない。」
と、母もよく文句を言うが誤解である。タローをしつけるとき、初心者だったボクたちは、パピーウォーカー向けの育児書に忠実に従ったのだ。「アップ」や「ヒール」などのコマンド(命令言葉)は日本でも盲導犬を飼う人はみな使う。ただ、タローは幼い頃、なおみの発音でしつけられてしまったので、母の「カム(kamu)!」が「come」のことだとは分からないだけなのだ。最近、母も考えて「カン!」と言って呼ぶことにした。タローもそれなら分かるらしく素直に従っている。