OUR DAYS2011年2011/12/31

あの日、ボクは愛機に300mmの望遠レンズを装着し、タローを連れて荒川の人工干潟に出かけた。干潟は職場から徒歩20分ほどのところにある。仕事の進捗状況によって予定外の空き時間を得たときなど、まこと格好の遊び場にあった。

江戸前渡りの強い潮風のためだろうか、春分も近いというのに岸辺の芦原には春のかけらも感じられない。三脚を構えている初老の男性に出会った。

「二、三日前に☆☆☆(鳥の名前)が渡って来たらしいんですよ。」

少年のような目をして彼は言った。ボクのようななんちゃって鳥撮りとは違い、本物の野鳥ファンに違いない。このとき彼に教わったその鳥の名前が今はどうしても思い出せない。スズメくらいの大きさでスズメに似た色だと教わった。

「ボクも狙ってみます。」

と、答えて別れてはみたものの、いったいどうやってスズメとその鳥とを見分けたらいいのだろう。小さい鳥らしいので、ともかくボクは望遠にエクステンダーも装着して葦の茂みなどを探してみる。気楽なものだ。ちょうど仕事が少ない日だったので妻も美容院に行っている。タローは気ままに遊んでいる。

まさに平和と幸福を貪るようにボクらは暮らしていた。

ところがその日に限って、珍しい渡り鳥どころかスズメもいない。シギやウミウもどこへいったのか姿が見えない。川全体が静まりかえっていた。その上、低く垂れ込めた不気味な雲からお天気雨までがぱらついてきたので、ボクは早々にタローを促し干潟を撤退した。

オフィスに戻ってPCに向かうと、まもなく入力中だった子音のtがずらーっと2行ほどもタイピングされた。キーボードが壊れたのかと思ったら、そうではなくデスクが地面ごと揺れている。直後、震度5強という初体験の主要動が襲って来た。タローが不安そうにデスクの横に来て座った。

夜、ボクたちは世界的に有名になった東京の秩序ある帰宅難民に加わっていた。

7時間もかかって家に帰ると自宅の建物には亀裂が入っていた。だが、ボクたちだけでなく、ほとんどの都民はこのとき少しもくじけてはいなかったし、被災したとも思っていなかった。それどころか予想される東北地方の被害を自分たちでカバーしてやろうくらいの熱意を共有していたと思う。

一変させたのは福島第一原発の爆発事故だ。少なくとも福島南部の揺れや津波は想定外のものではなかったはずだ。それがあっけなく核爆発を起こした。その脆さは、事あるごとに原発反対を唱えていたボクにとってすら意外なほどであった。

テレビでは政府や東電の責任者たちが、初めて聞く単語や単位をつなげ、嘘と言い訳を延々としゃべり続けていた。そして民放で人気者の気象予報士やNHKの美人予報士が笑顔で「(予報が)外れちゃいました。」とおどけた日、関東一円に放射能の雨が降った。数日後、浄水場から放射性セシウムが検出され、ボクの、そして多くの都民の心はとうとう折れてしまった。物資が不足し、計画停電が始まった。余震の中で重苦しい恐怖の日々が続いた。虚無感と無力感から何もする気が起きなくなり、ボクたちにとってはかなり背伸びした義援金を寄付することで行動しない自らへの言い訳にした。

5月のある日、信じられないニュースが報じられた。稼働中の浜岡原発に首相が操業停止命令を出したのだ。不思議だった。若い頃、いくら自分が署名活動やデモに参加しても、止まるどころかすさまじい勢いで建設、推進され続けた原発が初めて後退した。

浜岡原発原子炉が完全停止した翌日、ボクは浜岡砂丘へ行った。事故以来、本当に久しぶりの旅だった。そして原発の上空に虹を見たのだ。

正確には日暈(にちうん)という。この日を境にボクの心はぎりぎりのところで回復に転じた。だが虚無感や無常観から完全に脱却できたわけではない。今でもときどき突然泣きたくなったりする。たぶん、東北や関東にはボクと同じような心の被災者が数え切れないほどいるだろう。現実の被災者のことを思えば、顔には出さず、みな歯を食いしばって心に巣くった闇と戦っている。

震災後、しばらくひっそりとしていた赤坂や六本木の賑わいは、夏を待たずに自粛期間を終えて完全復活した。どうにもオヤクニンというのは一般庶民とは人種が違うのだろう。夜毎のドンちゃん騒ぎとともに、ダム工事も増税もTPPも動き出した。どじょうだかうなぎだかを操るのは容易いのだろう、原発もやむなしという世論作りもソツなく始まっている。

ボクたちも新しい年に向け、弱った心でまた発信しよう。

原発NO! 核兵器NO!

2011/12/31

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