関が原散策画帖

Sep, 2013

 


爽やかな季節になりました。
シュウとドレミとタローが関ケ原の史跡散歩にご案内します。
さあ,どうぞごいっしょに秋の近江路へ…


笹尾山麓~島左近陣所跡

笹尾山~石田三成陣所跡

関ケ原俯瞰図

「関ケ原決戦地」という幟と碑。

黒田隊と島隊の激戦地という意味でしょうか。

西軍鶴翼の陣形に沿って南へ歩きまーす。
はぐれないようについてきてくださーい♪


小池村 島津義弘陣跡


松尾山

向かって左が東軍,右が西軍の最前線,天満山の麓に小西行長陣跡の幟が見えます。
奥に聳える松尾山の斜面を埋めていた1万6千の小早川軍が裏切って,雪崩れのようにこの前線に押し寄せたそうですから西軍はひとたまりもありません。

振り向くと北側には伊吹山が夕日に映えています。

敗れた三成は長浜を目指してこの山を越えて行きました。



小西行長陣所跡


宇喜多秀家陣所跡


天満山の森が美しく映る藤古川(現在はダム湖)を渡る

山中村(右手)には大谷吉継一党5700が布陣した。
正面は養老連山

大谷刑部少輔吉継墓(建立は正対して激突した藤堂高虎)

湯浅五助墓。
高虎の甥藤堂高刑は五助との約束を守り,家康の再三の要請にも係わらず,吉継の首を埋めた場所を秘密にした。


大谷吉継陣跡

決戦前,敵本隊(藤堂軍)に対して横を向くように南斜面に陣替えした。

中仙道を挟んで,友軍であるはずの小早川秀秋隊の大軍と相対する。松尾山を臨むこの坂に立つと,大谷軍の心情を思って胸が痛くなる。

「友情」という概念は「friendship」という英語とともに維新後,日本に入ってきたと司馬遼太郎さんは「関ケ原」に書いている。つまりそれ以前,中世の日本には,「義」「恩」「愛」というそれに近いものはあったが「友情」は存在しなかった。ただ唯一,大谷吉継が三成に寄せた厚情と行為は「友情」という語を持ってしか説明できないと。

「パパー!!ママー!!タイヘンだー!!」


なんだ,なんだ。どうせ,鳥とかビニール袋とかをお化けと見間違えたんだろ。

ん!?なんと,行く手が崖崩れ!!

こりゃ,ホントにタイヘンだ。
山の中を藤古川沿いまで戻らないと迂回できない。

真っ暗になる寸前に山を脱出!!この二人にはその緊迫感が感じられない(笑)

平塚為広の碑

辞世「名のために 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」は,奪った首級とともに吉継に後送した。
吉継の返歌「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」が陣中に届いたとき,為広はすでに東軍小川祐忠隊に向け吶喊をかけて闘死していた。

もののふの 世にある限り 語り継がん 大谷隊の藤川の陣

シュウ


天満山の崖崩れのために遠回りして,すっかり暗くなってしまった。

松尾山の麓を滑るように新幹線が走ってゆく。

中山道を東に戻ると,小さな峠があった。

このまま盆地の中央まで戻り,さらに車を停めた島左近陣屋跡まで北に登らなければならない。
まだ,30分以上かかるだろう。
大型犬を連れていると,公共交通機関は使えないので,こういうことには慣れている。
いつでもどこでも三人でとことこと歩くのだ。

旧中山道の不破の関跡。

関ケ原西の交差点にあるコンビニでトイレを借り,タローの水筒にも水をもらって,いざ北国街道を北に向かう。
跨線橋を渡るとき,東海道線の行く手にかすかな残照が見えた。西は琵琶湖の方角だ。

今夜はフンパツして犬と泊まれる宿を琵琶湖畔の彦根に予約している。
三人(2+1)の足取りは軽い。

かつて彦根には石田三成の居城,佐和山城があった。
敗れた三成が,伊吹山中で琵琶湖を目指している頃,佐和山は裏切った小早川秀秋を中心とする東軍に囲まれていた。


個人的には井伊藩に関心もシンパシーもない。

…が,彦根に宿を取ったのだから,国宝の城くらいは見物していこうかと考えるところはボクもなかなか大人である。

ロマン重視のなんちゃって史跡探訪において,彦根城は全くお呼びでなかったのだが,「犬連れにやさしい」と聞いて手の平が返る。

いやあ,いい城だなぁ。

はいはい,入場料も快く支払う。「判断基準はそこかよ」とつっこまれそうだが…そこである。

関ケ原の戦功によって佐和山を奉ぜられた井伊直政が,わずか二年で病死した。それをきっかけに,家康の命により新たに築かれたのが彦根城である。藩名もそのときから彦根藩となった。一説には井伊家が旧主の善政を懐かしむ領民の統治に苦しんだからだとも言われる。

その旧主,石田三成が佐和山城主に任ぜられたのは1590年,僅か十年で領民に慕われるまでになったことになる。吏僚として抜きん出た才能を持っていた三成は,おそらく公平で公正,そして合理的な民政を布いたと考えられる。それが民衆に歓迎されたということは,当時の一般的な民政がいかに理不尽であったかを物語る。

天守から佐和山が臨まれる。

家康は佐和山城を跡形もなく平らげ,神社仏閣など三成に関わるあらゆるものを一掃するよう命じた。それは,豊臣政権が持っていた流通経済の合理性を否定し,反動するところから江戸の幕藩体制が始まったことを象徴している気がする。

ヒコニャンがやってきた。

パパ見えない。

よしよし,抱っこしてやろう。

さあ,次はまたタローの好きな山登りだぞ。

あなたが心癒される風景と時間に出会いたければ,近江や播磨にあるあまり知られていない古刹を訪ねるとよい。

そんな古刹のひとつ,…彦根の町外れにある寺の境内で彼はひっそりと訪れる人を待っている。


龍潭寺 石田三成公座像

寺の奥が佐和山城跡への登り口になっていた。

ひょえー!!完全に登山道。

タロー,あんまり興奮するとへばっちゃうぞ。

三成に過ぎたるものがふたつあり 島の左近に佐和山の城

…三成の贅沢や権勢を歌ったものではない。逆である。

近江の要地を見下ろすこの山に,かつて一山全て要塞と化す壮大な城があった。関ケ原戦後,三成の老父正継を主将とする2800の守兵で東軍の猛攻撃に3日も耐えた佐和山城がついに落ちたとき,場内に侵入した兵士は,そのあまりの質素さに驚いたという。

三成という男は一切の私利私欲を捨て,与えられた石高の全てを軍事力に投入した。城には財宝も装飾も一切なかった。豊臣政権の後を狙う巨大勢力に対抗するためである。彼は佐和山城を築城するとともに,戦闘指揮官としては自らの才能がないことを冷静に分析し,武に優れた武将を積極的に家臣として迎えた。島左近に知行の半分を与えて召抱えた話は有名である。関ケ原で笹尾山麓に布陣した島左近,蒲生頼郷,舞兵庫ら,いわば当時の日本代表FWがずらりと並んだようなものだ。勇猛で知られる黒田軍ですら容易に抜けなかったのも道理である。だが,彼ら勇将たちは高禄に応えるためだけに強大な家康軍と戦ったのだろうか。否である。彼らをして喜んで死地に赴かしめたものは何か。それは三成が彼ら武人たちに示した敬意だったとボクは思うのだ。自らの弱点を補ってくれる勇敢な家臣たち,三成は心から彼らを愛し,敬い,大切にした。彼はそういう主だったに違いない。

佐和山城本丸跡

落城の際,三成の家族は本丸で刺し違えるなどして自刃し,城内の女性たちは陵辱を恐れて谷へ身を投げた。自決した女性たちは2000人とも言われ,断末魔の悲痛な声が三日三晩続き,いつしか女郎谷と呼ばれるようになった。

眼下に彦根城を見下ろす。天守閣からは琵琶湖を行き来する船の動静が手に取るようにわかっただろう。

あれ,どうしタロー。落ち葉の絨毯に崩れ落ちて,暫く立てない。
…ほら,言わんこっちゃない。はしゃぎすぎるからだよ。

タローを気遣いながらゆっくりと下山する。

佐和山城(市の青年会議所が制作したレプリカ)


江州石田村

石田三成生誕地

関ケ原戦後,三成はこの地を目指して伊吹山を越え,古橋村の洞窟に潜んだ。
やがて匿った村人に罪が及ぶことを潔しとせず追っ手に使いを出して9月21日に投降したと伝えられる。
10日後に京都三条河原で斬首された。享年41才。

石田村の外れに観音寺という山寺がある。

長浜城主となった羽柴秀吉が鷹狩りの帰りにこの寺を訪れた。

「茶を所望!」

飛ぶ鳥を落とす勢いだった若き秀吉が境内に乗り入れた馬から飛び下りて縁側に腰掛けた。
寺小姓が最初は大きな茶碗になみなみと注いだぬるめの茶を捧げ持ってくる。
おなじみ三献茶の名場面である。

二杯目はやや熱くして量は半分,そして三杯目は小ぶりな寺宝の茶碗に舌の焼けるほど熱い茶を少量。

「そなた名は何と申す。」
「は。ご領内石田村の地侍の子にて名を佐吉と申します。」

少年時代の三成が茶の湯を汲んだと言われる井戸が観音寺山門の脇に今も残る。

三献の茶は江戸時代に創作された逸話だとも言われるが果たしてそうだろうか。

家康は関ケ原の陰謀を後ろめたく思っていたのだろう,作戦参謀だった本多正信は幕閣から遠ざけられ失脚している。
そして陰謀に利用した三成の痕跡もできるだけ隠滅しようとした。

三成に関する根も葉もないネガティブな噂を流したのも江戸幕府周辺の仕業であろう。
曰く「家康に秀頼を託そうとした秀吉を欺いた奸臣」,曰く「淀の方と密通して秀頼を生ませた逆臣」などなど。
それを秀吉晩年の失政に不満を持っていた士も民も受け入れ,やがて三成の存在そのものを忘れ去った。

そんな時代に秀吉と三成の出会いの物語が創作されるというのはどう考えても不自然である。

三献の茶は近江の人々が語り継いだ実話だろう…ボクはそう信じている。

長浜城跡

秀吉は三成の才を心から愛した。
天下統一の後,国政を整備するときに必要な人材だからとか,そういう打算的な理由からではないのだ。
純粋に三成の才能を尊びかわいがった。
秀吉とはそういう男だったのだろう。人蕩らしと言われるがそこに暗い陰や欺瞞は微塵も感じられない。

家康とは正反対の明るさと魅力に満ちている。

琵琶湖

三成はそんな秀吉に心酔した。
士は己を知るものの為に死すと言う。

佐和山城に隠された財宝を暴こうと,我先に城内に侵入した東軍の兵士たちはそのあまりの質素さに呆然とした。
金銀も茶器も財宝もない石田三成邸の奥に,唯ひとつ大事にしまわれていたもの…

それは秀吉が三成に贈った一通の感状だった。

おしまい

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