32/麦秋の筑波山麓
May 31st/2021
東京を朝4時に発った。
中央環状線桜大橋で早くも夜が明ける。
桜川には6時前に到着した。
時期はぴったり,一面の黄金色。
去年,自粛生活に倦んでいたとき,いばらき新聞のwebサイトに紹介された麦畑の写真に魅せられた。緊急事態宣言の中を二人でこっそり訪ねたがすでに刈入れが進んでいたので一年後に来ようと撮影場所をチェックして帰った。
楽しみに待っていた今年もまさかの緊急事態宣言中になるとは驚くばかり。訪ねる場所が畑の中なので感染拡大の可能性はないと思われるが,細心の注意とリスクを避ける行動を心掛けねばならない。
つくばりんりんロードは1987年に廃線となった旧つくば鉄道の線路跡を利用して整備された自転車道である。駅の跡が休憩所や駐車場になっている。ロード外を走るのに利用させてもらっていいのかビミョウだが,サイクリング中,安全に車を置く場所を探すのは毎度苦労させられるのでありがたい。
旧真壁駅から畑の中を巡る7.5kmのツーリングに出発。
古い町並みの残る市街を抜けて桜川を西に渡る。朝日に筑波山が美しい。町の中にも停まってみたい場所がたくさんあったが,ボクたち二人が感染者である可能性も0ではない。町の人との接触は自粛しなくてはならないだろう。
去年,夕日を待った麦畑に到着。何だかとても懐かしく感じる。ピンポイントに再訪できたのは車のナビに登録しておいた座標をスマホのマップで検索したからだ。便利な世の中になったとつくづく思う。
麦秋~筑波山麓
自転車のときは専らミラーレスのX-E2を使っているが,今日は麦畑を撮影するためにフルサイズ一眼の5D Mark3を背負っている。
重いLレンズはどうしても本数を制限されるので単焦点のレギュラー陣は揃って留守番となった。2本に絞ると結局17-40mmと70-200mmを選ぶことになる。控えに甘んじていたベテラン選手が大事な試合の先発に起用されるという趣きである。
1.3kgを超える70-200mmを担いで来たのはこの2葉だけのためと言っていい。
3月なのに初夏のような陽気になった。ソメイヨシノは終わり、皇居の堀は菜の花とハマダイコンの季節を迎えている。ユリノキの新緑も萌えだした。
望遠レンズで圧縮し畑の中に立っているように見せているが,実は専属モデル(笑)を歩かせているのは広い農道だ。
前輪の赴くまま北に走ると麦の穂の色が白い品種の畑に変わった。ふだんなら農作業している人のところにダッシュして色の違いを教わるところだが時節柄それもならず。帰宅後に検索して調べたがはっきりとはわからない。
ちなみにドレミが乗り出して撮っていたのはこのショット。ミラーレスを持たせているのにスマホで撮る。「ねえ,うまいでしょ。あたし」と画面を見せながら,それを母や義母に送信している。
この秘密の麦畑撮影スポットの地名は亀熊というらしい。地図には亀熊城跡という史跡が表示される。実はボクは元城跡ハンターである。→愛犬と訪ねる城帖.
スマホの地図を頼りに訪ねてみようと思って近くまで来たがそれらしき遺構も標識も見当たらない。城探しではよくあることだ。周囲の地形をよく見て人の手が加わっていそうな不自然な高まりを特定する。ギアをいちばん軽くして急な坂道を登ってみた。
いきなり民家の庭先に出た。しかも住民と思しきご老体とばったり出くわした。
まずは突然侵入した理由を告げねばならない。城探しのことを話して無礼を詫び,感染症のリスクからすぐにお暇する旨を申し上げた。
だがご老体の長い返事の中でボクたちが聞き取れたのは 「堀のあとがある。」 だけだった。
去年,水戸に嫁いだマナに教わった常陸弁の単語リストなど役に立つわけもなし。逆に感染リスクを慮るボクの言葉もほぼ伝わっていないと思われる。
「案内するからこっちに来なさい。」だと推定される言葉を発してご老体が庭の奥へと歩き出す。
脅威の感染力を持つ新型コロナウイルスにも入りこめる場所には限界があるだろう。もしもここに到達することがあるとすれば,それは感染拡大地域から侵入する人に依ってしかありえない。…ボクたちだ。軽率な行動からたいへんなことになってしまった。
本当に彼の安全だけを考えればこのまま黙って逃げるという道もある。 窮地に陥った。ドレミを見ると静かに首を振った。「No」の意思表示ではない。こういうときの判断はいつもボクに丸投げする。その合図である。立ち止まって茂みを指さしながらご老体の解説はすでに始まっていた。
ボクは彼の下へ駆けた。ドレミも続いた。二人とも一年以上電車に乗っていない。飲食店にも繁華街にも行ってない。それを言い訳にするつもりはないが,さりとてここで意思を伝えられないまま立ち去ることなどできるはずがない。
隣家を横切り竹林へと進む。
堀の跡は下りながらずっと続く。
東へ向かって大きな竪堀が見て取れる。
「栃木の城+α」に依れば真壁氏が創生期に築いた城という説が有力のようだが,すると平安時代後期ということになる。だがこの規模を見ると廃城の後,室町時代あたりで再整備されて使われた可能性もありうる。
竹林を抜けると墓地に出た。墓石で土留めされているのがビミョウな雰囲気を醸している。
ご老体が一方的に話し続けている。ドレミはいつも聞き上手であるが,今回は9割方の意味が分かっていない。
地図上の城跡はこの墓地に表示されているが実城は後方の茂みの奥であろう。ご老体の家の西隣あたりが本丸だったと考えられる。かつて…少なくとも平安時代に桜川の河岸段丘の上に確かに巨大な建造物があったはずだ。
一回りしてご老体の家に戻りお礼を言って別れた。その前に庭先でご自慢の先祖伝来の木像や聖徳太子碑にも案内された。念のためご住所を確認して後日写真と礼状を送った。ご壮健な様子でほっとしている。奥さまを亡くされて以来,ずっと一人で暮らされている。家の表札は先代のお名前だった。
ドレミがバッグからお菓子ボックスを取り出しておやつタイムとなった。
真壁の集落は桜川の作った盆地にあることが分かる。
真壁城跡は市立体育館の裏にあった。国の史跡に指定されて文教予算も下りているのだろう。市も発掘に力を入れているようだ。入り口にポストが設置されていて,中にA4白黒手作り感満載のパンフレットが入っていた。
おそらく市の教育委員会のHPなどで同じ情報を得られると思われる上にパンフレットは二枚しかない。ボクが取ってしまうと残り一枚になってしまうがやっぱり紙の案内は格別である。親しみが違う。担当する人の熱意が伝わってくる。ひとつ頂戴することにした。
地形から見て体育館から国道にかけてが本丸だと思われる。体育館の竣工は1979年,真壁城が国の史跡に指定されたのは1994年。遅きに失した。あらかたの遺構は破壊され出土品は瓦礫としてゴミ捨て場に消えただろう。
北側に神社があって石垣跡らしき地形を残している。
現在発掘調査が行われているのは三の丸にあたるだろうか。水田となっていたために保存状態がよいようだが如何せん本丸からは遠い曲輪の跡である。
おそらくは武家の屋敷跡などが発掘されるのだろう。
作業開始前の職員に尋ねてみた。
「オオモノは発掘されましたか。」
「なーんも。食器とか器とかカワラケとか。」
…器ばかりのようだ。もっとも今は発掘のために周囲の地盤を整備しているところだそうで本格的な作業はずっと先になるらしい。
真壁氏は鎌倉北条氏、足利公方、佐竹氏と勢力関係の変わる中をこの地にしぶとく生き続け、ついに19代目のとき関ヶ原での進退を過った佐竹氏とともに出羽へ移封された。
9時前にりんりんロード真壁休憩所に戻った。そろそろ町が動き出す時間だ。東京からの来訪者は去らねばならない。
国道沿いのセコマだけには寄らせてもらった。茨城に来る楽しみのひとつがセコマである。苫小牧と大洗を結ぶ定期船を利用して北海道と同じ品物が棚に並ぶ。豆だらけのパン,総菜のナポリタン,山わさびサンド,ホットシェフのおにぎり。今夜はそれらを肴に冷えたグラスにサッポロクラシックを注いでタローと旅した北海道を懐かしむのだ。