49/しまなみ海道前編


April, 2022


渋滞する姫路バイパスでついに意を決し,明日のしまなみ海道の宿を予約した。一ノ谷と予備日を合わせ二日の余裕を見て天気の動向を見極めてきた。そして明日の晴れを確信した。ここは思い切りゼイタクするつもりだったがあまり選択肢がない。中間地点の伯方島に目星をつけていた旅館はなぜか民宿より値段が安い。じゃらんに「お魚三昧コース」というのがあった。せめてそれでランクアップすることにした。



問題は今夜の宿である。明日の朝いちばんで因島の土生(はぶ)港を出港する船に乗りたい。どうせ夜明け前に起きなくてはならないので因島の宿ではメリットが少ない。福山には早立ちに適したビジネスホテルが多い。福山で早寝するという案もある。…が,如何せん早朝の船に乗るには土生港まで距離がありすぎる。


船の時間を考えると,因島で車泊するというのが最も現実的なのだが,旅の前半,動物園に予定外の一ノ谷や和歌山城を歩いて足腰が悲鳴をあげている。長距離サイクリングの前日である。ゆったり湯に浸かってベッドで寝ることが望ましい。…湯か。

因島には20年前の思い出がある。ボクはドレミのNYC留学中にしまなみ海道を一人旅した。橋は全線開通したばかりで,どの島でもよかったのだが因島を選んだのは,他の島には銭湯がなかったからだと記憶している。昼は絵を描き,夜は銭湯に行ってから人けのほとんどない公園の駐車場に寝ていた。

そうだ。あのときの銭湯…検索すると寿湯はまだ営業していた。懐かしさが押し寄せた。確かご高齢の女主人が一人で切り盛りしていた。もしかしてまだお元気だろうか。


山陽道から一気にしまなみ海道に入る。 



尾道大橋には車道しかないため実質自転車の通行ができない。だからサイクリストも尾道と向島を隔てる尾道水道ははしけで渡ることになる。ボクはこの向島のはしけには何度も乗ったことがあるので,今回のサイクリングのスタートは因島からにした。

車は向島を縦断して次に因島大橋を渡る。




寿湯は20年前と同じ佇まいだった。


「ここが焚口だってー」

これはもうレトロとかいう範疇を超えている。存在が奇跡である。ドレミは電話で営業を確かめて,焚口の近くに寿湯の駐車場があると聞いていた。電話に出たのは元気な声のお年よりだったと言うがまさかにあの女主人だろうか。


果たして女店主は20年前と変わらずに男湯の脱衣所に置かれたマッサージチェアで居眠りしていた。ボクたちの気配に気づいて起き上がろうとしたがすぐには体が動かない。ドレミがあわてて料金を女湯側から差し出した。

「これね,シャンプーがなかったら使ってください。」


忘れ物らしいシャンプーや石鹸が湯桶にたくさん入っていた。商売っ気のないこのサービスも変わらない。

「ボクは20年前,因島に絵を描きに来て,こちらに三晩お世話になったんですよ。」

「へえ~」と店主は笑顔で驚いてみせたが,たぶん同じような人はたくさん訪ねてくるだろう。


コインランドリーと同じくボクとドレミの銭湯履歴も日本中にたくさんある。

女湯からはドレミが地元の人と談笑するのが天井に反響して聞こえてくる。ボクは先に髪や体を洗い終えてから,入浴剤で緑色の湯に身を沈めた。

待つほどに

「シュウ~」


ドレミの声が天井から聞こえてくる。

「おう」
「そろそろ上がりまーす。」
「おう」


ボクたちの入浴は早い。急いで車に戻るとタローがたいてい座席の上に立ち上がって待っていたものだ。ボクとドレミだけで楽しいところに行っているのではないかと疑っていたのだ。ドレミが車内にタオルを干して,洗面用具や着替えを片付ける間にタローを散歩させるのはボクの役だった。湯上りの路地にたくさんたくさん思い出がある。



懐かしさに一人旅のときと同じ公園に移動して寝ることにした。あの時はNYCに携帯メールを書きながら缶ビールを開け,星空を見上げていた。

今日は後部座席にタローの気配が濃い。早く寝ないと明日は早い。



夜が明けた。寒い夜で4月なのに霜が降りていた。放射冷却であろう。空は狙い通り,いやそれ以上の晴天だった。この車泊用の寝袋はかれこれ30年くらい使っている。



同じ駐車場でルーフに自転車を積んで車泊していた家族にあいさつに行くと大阪からの旅行者だった。しまなみにはよく来るそうで,おそろしくていねいに色々な情報を教えてくれる。地図もくれた。

この駐車場を拠点に自転車で周辺の島までサイクリングしているとのこと。休日でも駐車場が満車になることはないので,人に迷惑をかけないし,ほどよく車が出入りするので,かえって車も安全だと言う。


予定では土生のパーキングを利用するつもりで調べてあったがこの情報は魅力的だった。島の北端なので,ここを出発点にすれば因島も自転車で縦断できることになる。


船を一便遅らせて急遽ここから走り出すことに決め,車を大阪ナンバーに並んで停めさせてもらった。

もう2か月も前からこの日の出発を想定して準備してきた。一泊でのサイクリングは初体験,二人とも何とかなるさ的な発想が苦手なタイプである。何度も荷物を確かめた。


さあ準備は万端,世界中のサイクリストが憧れるしまなみ海道ツーリングの始まりだ。

公園を出てすぐに強い上り坂になった。ボクは上り坂がとても遅いのでいつもドレミが先行する。100メートルほど先の坂の上まで行って待っているのが見えた。ボクは自分のペースを守って漕いでいた。低いギアでチェーンから異音がするのが気になる。いったん止まって確かめるため縁石に足を置こうとしたとき路上の小石が目に留まった。

伸ばした足が空を切った。目の前が一瞬暗くなってきな臭い匂いがした。気づくと視界は空だった。転んだ。左の膝の下が痛い。ひじも打ったようだ。自転車は後方に倒れていた。ドレミの方を見上げたが,何か作業に熱中しているようで事故に気づかない。痛恨の思いで目を閉じた。

「ボクたちのしまなみ海道ツーリングはスタートから80メートルで終わった。」

そんな旅行記の一文が頭の中に浮かんだ。

膝と肘に擦過傷がある。同じ場所に打ち身の痛みがあるが他に大きな怪我はないように思える。二三度,膝を曲げ伸ばししてからそっと体を起こしてみた。大丈夫。どうやらうまく転がったらしい。自転車は…。

左側のフロントフォークとシートステイが傷ついていたが,ディレイラーやスプロケットなどのメカ部は全く無傷だった。足を置こうとした縁石がなぜか高さ30cmくらいの大きなコンクリートだった。メカ部は車体と縁石と地面の作る三角形にはまって無事だったようだ。しかも高すぎるために体が歩道側に投げ出されて,車体に力もかからなかった。飛ばされた体は縁石にも車体にも挟まれることなくころころと歩道を転がって大怪我にならなかった。

幸運だった。


自転車をひいて坂を登るとドレミがきょとんとしている。

「どうしたの?」

…とうとう事故に気づかなかったのか。

下り坂で自転車に乗ってみた。膝の打ち身は痛むが自転車が漕げないほどではない。因島を縦断する道路の峠付近にコンビニがあったので大きな絆創膏を買ってきてもらった。治療は今夜でよさそうだ。


単独行やクラブらしき団体,そして家族連れなどたくさんのサイクリストを見かけた。みな恐ろしいほどマナーがよく道交法も遵守する。地方に比べれば東京のドライバーは自転車に慣れてきている。だが一部を除けば,サイクリストの方のマナーはひどい。それに比べてしまなみ海道は全く別世界である。ここだけがオランダやドイツで見たバイク文化圏にあると言える。


自然にボクたちもその中に混じることができた。ボクから後方のドレミへのサインも見よう見まねで上手になった。そうこうするうちに,昨夜下見しておいた土生港の埠頭についた。 



自転車積載の申し込みをして注意事項を聞く。要点は以下である。

1.すべての備品は取り除き自転車だけにすること。

2.海水がかかったり,揺れでぶつかって傷がついたりする場合のある旨を了承すること。



「いまはる」である。夕べ寿湯の女湯の常連客が,ドレミの話を聞いて,

「まあ,いまはるまでお渡りになりますのぉ?」

…と言ったので行き先は「いまはる」である。



マイ自転車と一緒に海路「いまはる」に渡り,帰りは自転車に乗って因島に戻る計画である。 



後方に船が姿を現した。 正確には芸予汽船の高速艇という。切符を買うとき,フェリーと言ったら係の人に訂正された。はしけとは一線を画すプライドがあるらしい。



自転車は係の人が積んでくれる。



汽笛,船内放送,ディーゼルのエンジン音。

心浮きたつ出航だ。


海面が鏡のように平らである。船はその上を滑るように進む。ほとんど揺れない。この日,東京には台風のような嵐が襲い土砂降りの天気だったそうだ。よほどボクたちの日ごろの行いがいいと見える。


犬が乗れるのかどうか確かめなかった。かつては犬を乗せてくれるというだけで,わざわざフェリーに乗りに行ったものだ。

タローのように飛行機に乗った犬は日本ではまだまだ少ないだろうが,アメリカではゴールデンレトリバーもふつうに空港のロビーを歩き,列車に乗り,バスを待っていた。日本もやがてそうなるだろう。だが,ボクたちにはもう関係がない。



1時間半ほど,瀬戸内の輝くような青い海と桜満開の島々を眺めながらの快適な船旅を楽しんだ。


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四国本土の滞在時間はわずか55分。

何しろ因島を縦断して予定より3時間ほども遅い船に乗ったので,ドレミが時間を心配する。宿は二つ目の伯方島の北端に取ってある。遅くなって迷惑をかけたくない。

慌ただしく記念撮影するボクたちの後方にしまなみ海道で最大の橋,来島海峡大橋が見える。



橋のたもとに今治市営の糸山サイクリングターミナルがあった。



サイクリストのための施設だが,如何せん時間のないボクたちはほぼ素通り。よしんば時間があったとしても,ドレミがショッピングするというわけにはいかない。荷物はリュックに背負える分しか持てないからである。



ボクらが最初に挑む来島海峡大橋の橋げたは海面から65m。しまなみ海道で最も巨大で標高が高い。自転車では橋までぐるぐるとループ橋でアプローチする。



ループ橋の入り口。上を通っているのが一週目のループ。



初体験のボクたちはこの高さに面食らった。車ならば今治で糸山の坂を登ってしまえば,あとは尾道までアップダウンを感じないほどほぼ平らな道が続く。

ところが自転車は橋まで50mを超える落差を登り,渡ると海面レベルまで下る。そして島の峠を登り下りしてまた次の橋を登る。実際の距離よりずっとスポーティなサイクリングロードである。



料金所に「自転車無料!」とあった。実は無料は20年の春までだったのが,今年の3月31日まで2年間延長されていた。3日違いで有料化するはずだったのが,どうやらまたさらに2年間延長になったようだ。



ラッキー~♪



ボクと同型のジャイアントに乗っている人がやたらに多いと思ったらレンタサイクルらしい。

オーストラリアから来たと言う外国人観光客の団体とすれ違った。彼らはきっと日本とはなんて美しい国だろうと感動しているに違いない。彼らは幸運である。日本人でも今日ほど美しい瀬戸内の風景を見ることは稀である。