50/しまなみ海道後編


April, 2022

大島に下りてすぐに道の駅があった。昼には遅い時間だったが匂いにやられた。名物鯛塩ラーメンとわかめジャコ天,それに塩レモンソフト,これらを半分ずつならば夕飯に影響はないだろう。何しろ夕食は「魚三昧コース」である。ごっくん。


急坂が宮窪峠へと向かう。



標高79m。ここがしまなみ海道の最高標高地点である。


風を切って坂道を下り,島の北東側の海岸に出た。

能島が臨まれる。村上能島水軍の本拠だった島である。今は城跡が桜のぼうしを被ったように美しい。能島に渡るツアーもあるが今回はあきらめた。大島にはミュージアムもある。こちらは時間に余裕があったとしても行かなかったろう。ボクは城跡や古戦場を訪ねて当時を偲ぶのを趣味としているが,出土品をガラスケースに入れて展示している施設にはどうも足が向かない。


伯方大島大橋。



橋の上にたどり着いたのはもう午後3時半だった。




橋から伯方島に下ってまたまた道の駅。ドレミが伯方の塩ソフトの行列に並んでいる。

「さっき塩レモンソフト食べたじゃん。」
「だって伯方の塩よ。食べないと。」

女はブランド名に弱い。



あった。たどり着いた。今夜の宿,その名もしまなみ旅館である。



なるほどこれはボロい。安いわけであるが,掃除はきれいに行き届いていて,旅館としての設備もきちんと揃っている。きっと創業の頃は島一番の高級旅館だったのだろう。



缶ビールを一気飲みした。

因島11.8km
今治7.2km
来栖海峡大橋(ループ含む)5.1km
大島13.2km
大島伯方大橋(ループ含む)3km
伯方島(ここまで)2.5km
ーーーーーーーー
合計42.8km


二つの橋の高低差や宮窪峠などのアップダウンは距離に入っていない。缶ビール500mlは妥当である。


泊り客はボクたちを含めて三組。風呂は二つあるので,札を下げて貸し切りとなっていた。ざっと体を洗ってから,擦りむいた膝に手を当ててそろそろと湯に入れた。

「痛ーっっ!!」

足首に激痛が走り湯から飛び出した。やれやれと言った表情でドレミが洗髪の手を止めた。

「どれ,見せてごらん。あら?」


足首に膝より深そうな擦過傷があった。朝から気づかなかったのだから大した傷ではない。それでも傷を知ってしまうと急にじんじんと痛み出すから不思議である。両手で膝と足首を押さえて湯に入り,腰を下ろしてから足を浴槽の縁にかけた。

「ゴクラクゴクラク」

「あ,ごめん」
「ひえー!!」

ドレミが湯に入るときにわざと膝の怪我を触った。「大げさな」…と顔に書いてある。

部屋に戻って大きな絆創膏を二枚,膝と足首に貼ってもらった。昔と違って今はかさぶたを作らずに傷を治す。血小板もさぞかし役不足を嘆いているだろう。もっともボクが怪我したのは,小学生だったリリに教わりながらブレイブボードで転んだとき以来だから8年ぶりのことである。ふつうの年寄りはブレイブボードやクロスバイクで転んだりしない。


窓から海が見える。

湯上りの散歩に出たが,このわずか数十メートルがもう歩けない。足はタコのようにぐにゃぐにゃして腰はぱんぱんに腫れている。ドレミの肩を借りてひょこりひょこりと歩く。


驚いたことに宿の前の海はこんな景色だった。鼻栗瀬戸…瀬戸の対義語は灘で開けている灘に対して,対岸の迫っている海を瀬戸と言う。鼻栗は牛の鼻輪のこと,大三島と伯方島を隔てるS字型の狭い水路の地形を表している。そしてその海峡には大きな干潟が広がっていた。かつては見渡す限りの塩田だったのだろう。伯方の塩のこれが原風景である。温暖少雨の気候と豊富な干潟が瀬戸内に製塩をもたらした。今は伯方島に製塩所は残っていない。


宿に帰ると小さな事件が待っていた。夕食の部屋は客室ごとに個室となっている。案内してくれた女将さん(兼仲居さん)が部屋の名前とボクらの顔を見比べ,ぎょっとして立ちすくんだ。そこにちょうど宿主(兼料理長)が通りがかり,二人は無声音で激しい言い争いになる。

無声音と言ってもボクらを挟んでの論争なので全く秘密の会話になっていない。

「今さらどうしようもないだろ。このままご案内しろ。」


ご主人の出した結論もボクらには筒抜けである。笑いをこらえながら「このまま」の部屋に案内されると「お魚三昧プラン」はご覧のタイヘンなごちそうだった。そして意を決したように女将さんが次の間に両手をついて頭を下げた。

謝罪の要旨は以下である。すなわち

「ボクたちの予約は確かに前日の午前中に「じゃらん」を通して入った。ところが何の手違いか代表者のボクの年令が,間違えて61才になっていた。そこで三昧コースはヴォリュームを抑えて魚の質にシフトする「シニア向け三昧コース」を準備した。よかれと思ってのことなのでどうか赦してほしい。」

ボクの年令をよほど若いと勘違いしている。女将さんの謝罪は2点に於いて全く無実の罪である。まず,じゃらんのユーザー登録に正直な生年月日を記入したのは他ならぬボク自身であり手違いではないこと,そしてこのシニア向けなる三昧コースは正真正銘のワカモノであってもおそらく食べきれないヴォリュームだという点である。いささかノーマルの三昧コースを想像するのが怖い。

ボクらの説明を聞いて,おかみさんはぽかん口を開けている。

「…40代にしか見えない。」

もしかしたらこれは,客を喜ばせる手の込んだ新手のサービスなのではないだろうか。料理長との論争からの一連がパフォーマンスかと思えるほどの驚きようである。

数日前に白浜温泉でシニア料金が適用されたことを話すとようやく納得したらしく,喜色を浮かべながらいそいで宿主兼料理長に報告に行った。さてボクたちは結局「シニア向け」の1/4も食べられず,お刺身すら残して箸を置いた。あんまり悪いのでお銚子を三本頼んだが,その肴は魚ではなく,刺身のつまの大葉やパセリ,酢の物や煮物の中から摘まみ出した僅かな野菜部分であった。

さて,ボクは女将さんの好意的な評価に応えなければならない。夕食後から翌日の出立まで,萎えた足腰に鞭打ち,ドレミの肩を借りずに背筋をピンと伸ばして廊下や階段を闊歩した。その姿にドレミがとうとう噴き出したことは言うまでもない。

空は青く海は碧く,満開の桜が島々を薄紅に輝かせ,平地は菜の花で一面に埋もれ,丘には柑橘類の実がどこまでも成っている。せとか,伊予柑,不知火,レモン…。ボクたちが走ったしまなみ海道はきっと一年で一番美しい二日間だったろう。


しまなみ旅館の普通の朝食。お魚はちょっと…。一週間くらいギブアップ。 



女将さんに見送られて背筋の伸びた40代のワカモノが颯爽と発ってゆく。



「どうしたの?」
「休憩」

宿から見えなくなったところで61才に戻る。腰は80才。 



そこがもう橋の入り口だった。



鼻栗瀬戸を俯瞰する。夕べ散歩した海岸が見える。しまなみ旅館はきっとあのあたり。忘れられない楽しい思い出の入り江がもう懐かしい。



大三島上陸。 



橋の袂が桜で埋もれていた。 



「一日中,ここにいてもいいな。」


案内板に従って甘崎城跡を臨む堤防に出た。堤防に初老の男が立っている。その佇まいがどうも場違いというか浮いている感じがする。男の方もボクらを…というより自転車の観光客を快く思っていない。場の空気が重く沈滞するのに困ってボクとドレミはアイコンタクトした。

「すみません。シャッター押してもらえますか?」

たった一言話しかけることで関係は全く変わる。男は近所の住民だった。この島で生まれ育ち,大阪の企業に就職して定年を迎えた。それを機に故郷で暮らそうと帰って来たが,家族は誰も着いて来なかったのだと言う。ボクは道沿いにたわわに実る柑橘を指さして尋ねた。

「あれは伊予柑ですか?不知火にも見えますけど…」
「さあ…。」

わかりませんと男は答えた。彼の少年時代には蜜柑は栽培していなかったと言う。不在の間に故郷は製塩と米作りの島から果樹栽培の村に変わっていた。もちろん橋を渡って日本中,世界中から来たサイクリストが家の前を通るようになるとは想像もしていなかったろう。隣家の栽培している果樹の名前がわからないと言うことは近隣との交流もない。世代変わりして知り合いもいない。彼の一人暮らしが想像される。ブランドもののスポーツウエアに真っ白なテニスシューズを身に着けて散歩に出ている。ボクたちとの会話では,伊予弁でも大阪弁でもない流暢な標準語で穏やかに話す。大阪の大企業で高いポストにいたことは想像に難くない。彼が故郷に溶け込んで暮らす日は来るだろうか。


多々羅大橋。 サイクリストの聖地碑があるけれど,さすがに照れ臭いのでちょっと離れたところで到達ポーズ。

この橋を境に広島県に戻ることになる。



橋を渡った生口島は檸檬の島だった。丘一面を黄色く実ったレモンがうずめている。しばらくバイクを止めて見入るほどの美しさ。



島中が春を謳歌している。


生口島の北端,瀬戸田という中心街に入った。ドレミが東京を発つ前から検索していた「おしゃれなカフェ」をリストの上から順番に訪ねていくが,みなネット上の写真やガイドとは少し違っている。お土産屋さんの入れ込みであったり,夏だけのかき氷屋さんだったり。

「仕方ないから平山郁夫美術館の中のカフェにしましょう。」

ボクたちが訪ねた範囲で言えば,ヨーロッパの美術館の中にあるカフェはどこも庶民的である。歩き疲れた観客がコーヒーをごくごくと飲みながら大きなケーキを頬張り,「さあ,行くか!」と勇躍,次の展示室に向かっていくための休憩所である。これに対して東京の美術館に付属するカフェはたいていホテルのロビー並みの料金と雰囲気を醸す。今,ボクが妻のために探しているのは後者である。

平山郁夫画伯,生口島の出身である。パルミラ遺跡の絵は月や太陽の重心にあわせるように地平線や鉛直線が意図的に傾けてられている。初めて「パルミラ遺跡を行く」の前に立ったときは驚きの余り膝ががっくりと折れた覚えがある。文字通り膝を屈する迫力だった。決して誰もまねできない構図の天才である。「広島生変図」はいつか「ゲルニカ」よりも評価される日が必ず来るに違いない。


さて,ボクは美術館の門から玄関までがもう自力では歩けない。結果,この姿とならざるを得ない。仮に旅で足腰を酷使していなかったとしても,現在の腰の状態は10分間の直立姿勢に耐えられない。

そういう事情の人も少なくないようで,どこの美術館でも快く車椅子を貸与してくれる。だが,自転車で橋や峠をアップダウンし,額に汗の塩を噴きながら車椅子にへたり込むのは如何せん説得力に欠けるので肩身が狭い。


常設の平山作品には満足した。写真でしか見たことのなかったスケッチがみな大きなサイズの日本画だったのには驚いた。琳派の特別展もあった。屏風絵はもちろん実物ではないが,畳に座って光琳と宗達を見比べるおもしろい企画はここの学芸員のアイデアだろうか。

平山郁夫画伯が生口島や因島の風景を描いた風景画はここの収蔵品がほとんどで優れてはいるが平凡な作品しかない。

彼の優れたバランス感覚が事務能力にも及んでいたからだろう。芸大の学長や美術院理事長を歴任し,中東や東南アジアの遺跡保護にも多大な功績を残した。だが絵描きとしてそれが幸福だったのかは分からない。晩年,東京の事務室で費やした時間を,もしもこの美しい故郷で過ごされていたらどんな作品を世に残しただろうかと思わずにはいられない。芸大学長やユニセフ大使として慌ただしく帰郷する彼を,故郷の風景はどのように迎えただろうか。ふと甘崎城跡で出会った元重役の姿が思い浮かんだ。あるいは故郷は遠くにありて想うものなのかもしれない。


さて,ドレミお待ちかねのカフェは意外にも欧州型だった。生口島スペシャルのレモンケーキはお土産用の棚から個包装のまま運ばれてきた。さすがにドレミに掛けることばがなく,苦笑いするボク。



冷やした大皿にチョコレートでも細く絞って縞模様に敷き,その上にケーキを開封して載せて,粉砂糖でもふれば,3倍の値段がつけられるだろう。よく言えば良心的と言える。



レモンケーキがなかなか美味しかったので旅のお土産に決まった。美術館の隣りのお土産センターで待機中。



各種のレモンケーキをマックス購入したドレミが店から出てきた。ボクとドレミのバックパックの隙間にぴっちりとレモンケーキを詰めて,さあラストランに向かおう。 



生口橋と因島が見えてきた。



橋への誘導路で見かけるスポンサーの看板。たぶん,標識や道路の整備に協賛しているのだろう。



サイクリストを励まし案内してくれるペイント。



帰って来た因島はますます桜が盛りと咲き誇っていた。水軍城なるコンクリートの施設に立ち寄ってみたがひっそりと開館しているのかどうかも定かでない。



ゴール。

伯方島 0.5km
大三島橋 2.1km
大三島 5.1km
多々羅大橋 3.6km
生口島 11.7km
生口橋 2.9km
因島9.1km
2日目合計 35km


1日目 42.8km+35km=77.8km 初の一泊長距離サイクリングを完走した。


宿でシャワーを浴びて乾杯と行きたいところだが,留守番している母の体調が気になる。送られてくる気丈なLINEの裏を読んで心配するより,一気に帰京することにした。



完走祝いのごちそうは因島パーキングの水軍やきそばになってしまった。



ソメイヨシノが枝をしならせるほど花をつけている。まるでボクたちの健闘を讃え,送り出すかのようだ。



さらばしまなみ海道。