09/鎌倉後編

Oct, 2021

鶴岡八幡宮


静寂に包まれた法華堂を後に、幼稚園のお迎えママチャリに混じって裏道を走る。東御門から鶴岡八幡宮に入ると突如として観光客の波にのまれた。



舞殿(下拝殿)

しづやしづ 賤のをだまき繰り返し

昔を今になすよしもがな

 


賤とは倭文(しず)織、すなわち唐物に対して日本古来の素朴でカラフルな織物のこと。苧環は手織りの際にその麻糸を巻いておく糸玉。本歌は伊勢物語32段。男が昔の恋人に「いにしへの賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」と歌い、縒りを戻そうと語りかけるが女は相手にしない。…というストーリー。

専門家の間には他に様々な解釈のあることを今回知った。専門家というのは女心を解さないようだ。たぶんボクの解釈が正しい。 初句をしづやしづに変えただけで他の句すべてがキラキラと新たな意味を持って義経を恋うる想いを紡ぎ出している。この本歌取りは誰の作なのか見事としか言いようがない。吾妻鏡の記述通り静の作だとすれば彼女は和歌においても超一流だったことになる。 鎌倉初期にこの舞殿はなく,静が舞ったのは東側(画面向かって左)若宮の回廊だったらしい。


←見出し画像はこの写真に自分で絵を描き加えました。

鼓は「第7回/東林寺」でご紹介した工藤祐経,銅拍子は10回(最終回)でゆかりの地を訪ねる畠山重忠が伴奏したと伝わる。



折りしも取材日は11月15日。

境内には晴れ着の子どもたちが大勢いた。 余談だが室町時代1479年に太田道灌が江戸築城の際、鶴岡八幡宮から分霊を勧請し、市ヶ谷に亀岡八幡宮を建立した。江戸時代には歌川広重の江戸名所百景に登場するほどの人気観光地になった。わが息子が5才のとき,この亀岡八幡の神殿でご祈祷を受けた。



玉串を上げお札を授かった。息子は4年前に空へ行ってしまったが,お札は今も家の壁に飾ってある。ペットの祈願をしてくださることで東京では愛犬家にも有名な神社であるが鶴岡八幡宮に所縁のあることはあまり知られていない。


小町通り


鶴岡八幡宮の周りの道路は観光客の車で麻痺していた。ほとんど動く様子のない車列を横目に小町通りに入り自転車を引いて南下した。



鎌倉時代とは何の関係もないが,いつも拙文をお読みくださる諸兄姉の中には,ドレミの唯々としてマイナーな史跡探訪に従う姿に疑問をお持ちの方もおられよう。もっともなことであると思う。



彼女もまた史跡マニア…というわけでは全くない。このようにマメに妻のショッピングに付き合うボクの涙ぐましい努力あってこその従順さ。見えないところに打った布石が効いているというわけである。



ゆめゆめショッピングの時間に気を遣わせてはならない。彼女が店を出てきたときには一眼を振りかざし,町並みの撮影に忙しいふりをしていなければならない。「なんだ,もう終わりなのか。もっと買い物しててくれればいいのに」とでも言いたげに。



かくして,札幌で大阪でマンハッタンでソウルでバルセロナで…歴史探訪あるところ、ボクの膨大な街撮りの駄作もまた生み出され続けてきたわけである。…これまた余談。


一幡の袖塚

鎌倉駅から若宮大路に出て,二の鳥居を過ぎたあたりで東に折れる。鎌倉十橋のひとつ夷堂橋を渡ると町のあちこちの屋号や標識に比企谷(ひきやつ)という地名が残っている。13人のひとり,頼家の乳母父として権勢を振るった比企能員の邸跡である。世に比企能員の変と言うがどう見ても北条による暗殺事件である。頼朝亡き後,二代将軍と能員に権力が移行する危機感から政子が比企一族を不意打ちに滅ぼした。

道を突き当たるまで進むと衣張山の麓に妙本寺はある。変で生き残った能員の末子によって建立された。


ほぼ自転車で山登りに近い一日だった。 頼家の嫡男一幡(いちまん)の母・若狭局は能員の娘である。一幡は比企谷で生まれ邸内に設けられた小御所で養育された。能員暗殺の後,比企一族は一幡の邸に立てこもった。口実を得た政子は彼らを謀反人として皆殺しにする。討伐軍の指揮を執ったのは弟の義時である。寄せ手の中には三浦義村や畠山重忠もいる。



畠山軍の猛攻に屈した比企一族は邸に火をかけて自害,一幡は母に抱かれて逃亡する途中で義時軍に捕らえられ,虫のように刺し殺されたと言われる。一幡わずか6才。政子は幼い孫を手にかけたことになる。孫を持たぬボクにすら理解不能の心模様である。



小御所の焼け跡から焼け焦げた一幡の袖が見つかった。それを地元の人たちが塚に埋めて供養し,後に碑が建てられた。ボクたちは夕日の境内を探し回り,ようやくその場所を見つけた。


これほどの寂しさの中に源氏の嫡流は絶えた。


和田塚


若宮大路に戻ってさらに南下すると,JRの高架をくぐって間もなく,鶴岡八幡大鳥居(一の鳥居)が見えてくる。かつての海岸線である。



今度は西に折れて,江ノ電和田塚駅前の住宅地に分け入る。道はとても狭い。



駅名にもなっている和田塚は30坪ちょっとの小さな公園になっていた。



今日一日,鎌倉を東から反時計回りにサイクリングしてもはや言うべき言葉がない。これほど後味の悪い史跡探訪も珍しい。頼朝の死後,権力欲を顕わにし梶原景時追放の急先鋒だった比企能員,その比企能員の変で小御所を攻撃した和田義盛,そしてついには義盛の順番が来た。和田合戦である。執権政治体制を固めようと画策する義時の執拗な挑発に乗って挙兵した。ともに起つはずだった三浦義村にはとっくに義時の懐柔工作が入っていた。



戦中戦後を含め,晒された和田一族の首は200を超えた。公園の地面には宅地開発の際に集められた大小の塚石が所狭しと数十も転がっている。義盛の首塚もこれらの石のひとつだろう。 



和田塚でこの日の鎌倉探訪を終える。梶原井戸も一幡の袖塚もたどり着くのにとても苦労した。予定の倍の時間がかかったが目的の場所はほぼ訪ねた。



和田塚の街並みを抜けて由比ガ浜に出る。



最後はすいすいと海岸沿いの134号線を逗子に戻る予定だった。地図を見て立てた計画では…。 ところがどっこいどっこいしょ!材木座海岸を過ぎると,小坪,大崎の岬が立ちはだかる。行く手に二つの急勾配の峠,その頂点にはトンネルが待っていた。何十回も通っている道であるが車では坂道を意識したことがなかった。



通行する車の迷惑になるので自転車を引いて登るということができない。急な坂道でも必死にペダルを漕いだ。



駐車場に着いても暫くは足の筋肉が笑って立てなかった。よくぞミートバイバイしなかったものである。


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