今日は珍しくちょうど退勤時間が早い日だった。
ボクは安全策を取って東京の街全体を見渡せる若洲の岸壁に行こうと言ったが,なおみは勝鬨橋に賭けたいと主張した。
今回のエール花火はクラウドファンディングによって全国81の花火業者が参加して行われたそうだ。
密を避けるために場所は秘密になっているが,都内で打ち上げられる場所は限られている。
ナイターがあるので神宮と霞ヶ丘は候補から消えた。残るは隅田川かお台場か…。
築地市場の跡地で準備が始まっているという噂をネットで見つけたのはなおみだった。
「会社を出るとき,暗闇で選んだ鍵がぴたりと合った。今日はきっと当たる。」
そう言うので対岸の隅田川テラスに陣取って待つことにした。
30分前に着いた時は回りに誰もいなかった。
築地市場の中の場所によってはちょうどビルの向こう側になるがどこかわからないので仕方ない。
時間とともに近所の人が少しずつ集まってきた。的外れなら残念を共有する仲間たちだ。
午後8時。静かだった。観客に嘆息が広がろうとした時だった。
もろに橋の向こう側に火柱が上がった。
当たったー♪
地元にいながらいつも仕事で隅田川の花火を見たことがなかった。
ひょんなことで幸運に恵まれた。10分ちょっとの夢の時間。
「楽しかったねー。」
「楽しかった。」
そう言っあった後に,ボクたちはこんなことばを交わしたことがずっと長い間なかったことを思いだした。
タローがいた頃は「楽しい」のは常のことで何をしてもあえて「楽しかった」と確認することがなかったのだ。
コロナ禍に遭ってさえ,ボクたちの日々は客観的には幸福なのだと思う。
が,楽しかったことを「楽しかったね」と確認しあうときにタローの不在の重さを思う。
もっともタローは花火が苦手だった。
今日も花火が上がっている間,観客の誰かの犬が怖がってずっと鳴き続けていた。
「タローだったらきっと…」
脱糞して大惨事になっていただろう。最後まで言わなくてもなおみに伝わっている。
「うふふふ。そうね。」
門前仲町でハンバーガーを買って車で食べながら帰った。
途中で空の水瓶の底が抜けたのかと思うほどの雷雨になった。
夏が終わった。