枝幸の中心街というべき場所も,積雪のなかにある。
つららのさがる軒先をたどって,「お食事の店 福ちゃん」に入った。
食卓にむかうと,安野光雅画伯は,つねに王者である。小さなパイプ製のイスに大きな体をのせて,
「てんどん」
と,ためらいもなく命じた。
司馬遼太郎「街道をゆく38/オホーツク街道」より
司馬さんの作品はときに油断ならない。遠い歴史に思いをはせているとこんな爆笑シーンが予告なく唐突に現れる。
この一節を読んだとき,まさにコーヒーを嚥下した瞬間だったボクは吹き出すのをこらえるためにかなり苦しい思いをした覚えがある。
あまりに印象的なシーンだったので2007年夏に枝幸を訪ねた際,「福ちゃん」を探してみたが見つからなかった。
司馬さんとともに歴史を旅し,作中に絶妙なキャラクターで登場する安野さんの挿絵は素敵だった。
一方,ボクの師である新井秀一郎先生は初代の須田剋太画伯がお気に入りだった。
先生と野辺山の田んぼの中で写生をご一緒しながら「街道をゆく」の話題になったとき,
「(安野さんの挿絵は)ひどい絵ですねえ。」
と,容赦がなかった。
「そうでしょうか。」
ボクは困ってそう応えたのを懐かしく思い出した。
昨日の夕刊で安野光雅さんの訃報を読んだ。
司馬さんも須田さんも新井先生も鬼籍の人となって久しい。