西生浦倭城
清正が縄張りした豊臣軍韓入りの拠点
構造:山城
公式HP:不明
年代:1593年~1598年
主な城主: 加藤清正
所在地: Seosaeng-ri, Seosaeng-myeon Ulju-gun, Ulsan(蔚山)
訪問日:2004年8月
駐車場情報:未舗装,数台分あり(2004年当時)
遺構満足度:★★★ ロマンどきどき度:★★★★ 犬連れ快適度:-
蔚山駅前
かつて韓国では,
「チョンジョンが来るよ」
と,お母さんがおどすと,泣きじゃくる子が黙った
…という逸話が司馬さんの「韓のくに紀行」に紹介されています。
「チョンジョン」とは「清正」,言わずと知れた豊臣軍二番隊主将加藤清正です。朝鮮半島に討ち入っては,鬼神の大活躍をして伝説の猛将となりました。韓国の庶民から見れば,いきなり海を渡って襲来した悪鬼たちの頭領だったわけで,文字通り泣く子も黙るほどに恐れられたというわけです。
日本海(韓国名:東海)
蔚山の中心街から,海沿いを釜山方面に南下したところにある小高い山を訪ねます。名護屋から直線距離で僅か200km,対馬からは100km足らず。この小山に,渡海した豊臣軍が拠点とした西生浦倭城(せいせいほわじょう)の石垣や地形が当時のままの姿で残っています(2004年)。
築城の天才と言われた清正によって縄張りされて日本軍の拠点となり,文禄の役の際は和平交渉の主会場としても使われました。
夕闇の坂道に次々と石垣が現れ,道はその間をきちんと直角に縫いながら登っていきます。気付くと植えられている木はみな桜です。老木もあれば若くてまだ幹の細い木もあります。ソメイヨシノに比べるとやや葉が小ぶりで丸いようです。この国の他の場所ではこのような桜並木を見掛けなかったので,誰か日本人かその所縁の人が植え継いだものでしょうか 。
天守閣の跡とおぼしき広場に出るところで,まず北側の視界が開けて日本海が見下ろせました。色を増した夕日が桜の老木をシルエットにして,低い山に沈み始めています。司馬さんは朝鮮出兵を「秀吉の老人性痴呆がもたらした誇大妄想」と断定しています。
子飼いの大名だった清正は,あるいはそれを知っていて尚,秀吉のために漢城(ソウル)に金の瓢箪を打ち立てたかったのではないでしょうか。蔚山に死闘を尽くした彼の将士たちも,清正の熱い思いに応えたかったかったにちがいありません。
戦いの無益なことを知る将士たちは,遥か水平線に故郷を臨むこの石垣に立って何を思ったのでしょう。彼らの肩に桜の花びらは優しく故郷の春の香りを運んだでしょうか。
暮れなずむ日本海に,湾をうめつくす九鬼水軍の幻影を見ました。慶長の役は制海権の戦いでした。地元の伊勢湾から瀬戸内海にかけて無敵を誇った海賊軍団の猛者たちは,勝手の違う異郷の海に壊滅しながら,撤兵する軍を守り抜きました。
韓入りして奮戦したのは尾張系の秀吉子飼いの軍が中心で,大阪にいて指揮を執ったのが石田三成ら近江系の官僚大名たちです。関が原の戦いで東軍が勝利した本当の訳はこの蔚山の城に立たないとわかりません。
豊臣軍の撤退伴い,殿を務めた守将黒田長政が放棄して西生浦倭城はその役目を終えました。
ロングバージョン「彩夏韓国旅行記/09ケーサンソ!」は→こちら