09/ケーサンソ!

Aug, 2004

ボクはこの旅行記を通勤電車の中で携帯メールに書いては250字ごとに自宅のPCに送信している。朝の都営新宿線は市ケ谷で乗り換える人がどっと降りるので,気がねなく座れる。見上げると,大手塾の吊り広告に社会科の中学入試問題が出ていた。武田信玄と加藤清正の治水事業について説明した文に

「ダムなどの現代の河川事業について上記の二人の例と比較してあなたの考えを書きなさい。」

有名私立中学の入試問題は,少なくとも公立高校の入試問題よりはずっといい問題である。

加藤清正は賤ヶ岳七本槍や蔚山籠城の武勇伝や土木建築の天才として,日本では未だに教育現場でもヒーローである。が,もちろん韓国では秀吉侵略軍の大将として悪の象徴だ。

司馬さんは韓のくに紀行の中で

「『チョンジョン(清正の韓読み)が来るよ』とお母さんがおどすと泣きじゃくる子が黙った」

という逸話を紹介している。その清正が朝鮮半島に縄張りした数々の倭城の中で,保存状態がもっともいいのが西生浦倭城である。

さすがに,その「チョンジョン」の城に行きたいとジョーたちに言うのはプレッシャーだった。ところが若い二人は屈託ない。

「わー,こんなとこに城あとあったんだ」

「知らなかった」

「ドレミが崩れた石垣見たいらしいよ」

「うそー。ロッテランドの観覧車の方が面白いのにー。」

…なお,ジョーとヨンエの韓国語会話部分は全て推測である。

車はボクの感傷とはほど遠い雰囲気で,東海(日本海)に注ぐ二級河川の橋を渡った。夏の夕日が上流に傾き,逆光に色を失った景色が墨絵のように霞む。海辺らしく,石やコンクリートで作られた小さな集落を抜けると,城の石段が始まる直前に小さな駐車場があった。


夕闇の坂道に次々と石垣が現れ,道はその間をきちんと直角に縫いながら登っていく。気付くと植えられている木はみな桜だった。老木もあれば若くてまだ幹の細い木もある。ソメイヨシノに比べるとやや葉が小ぶりで丸い。他の場所でこのような桜並木を見掛けなかったので,おそらくは加藤軍が故郷を偲んで植えたのを,誰かが植え継いだものだろうか。


天守閣の跡とおぼしき広場に出るところで,まず北側の視界が開けて日本海が見下ろせた。色を増した夕日が桜の老木をシルエットにして,低い山に沈み始めた。司馬さんは朝鮮出兵を「秀吉の老人性痴呆がもたらした誇大妄想」と断定している。

子飼いの大名だった清正は,あるいはそれを知っていて尚,秀吉のために漢城(ソウル)に金の瓢箪を打ち立てたかったのではないだろうか。蔚山に死闘を尽くした彼の将士たちも,ただ清正の熱い思いに応えたかったかったにちがいない。戦いの無益なことを知る将士たちは,遥か水平線に故郷を臨むこの石垣に立って何を思ったろうか。彼らの肩に桜の花びらは優しく故郷の春の香りを運んだろうか。

暮れなずむ日本海に,湾をうめつくす九鬼水軍の幻影を見る。慶長の役は制海権の戦いだった。地元の伊勢湾から瀬戸内海にかけて無敵を誇った海賊軍団の猛者たちは,勝手の違う異郷の海に壊滅しながら,撤兵する軍を守り抜いた。

韓入りして奮戦したのは尾張系の秀吉子飼いの軍が中心で,大阪にいて指揮を執ったのが石田三成ら近江系の官僚大名たちだった。関が原の戦いで東軍が勝利した本当の訳はこの蔚山の城に立たないとわからない。

にぎやかにフーンやハナたちと電話しながら,3人が追いついてきた。ボクは

「加藤軍は,略奪や破壊を軍律で厳しく禁じていたそうだ。」

と彼らに説明したが,若い二人は興味がない。清正公も400年もたった城跡で日本からの観光客に弁護されるとは思わなかっただろう。草葉の陰で苦笑いしているかもしれない。

真っ暗になってから山を下り,蔚山市内に引き返した。ジョーが友人の経営する新感覚のチキンレストランでごちそうしてくれるという。行ってみると順番を待つ若者たちの列ができていた。

新感覚のチキンは小粒に切り分けたチキンのから揚げに,韓国ではオーソドックスな唐辛子系の味付けをしたもので,メニューは他にキムチやスープだけだ。この小粒チキンがなかなかのアイデアで,ボクも帰国したあと試してみたが,小さくしたことで,短時間に柔らかくカラリと揚がる。なるほど原宿あたりでも列を作れるかもしれない。観覧車のあるロッテホテル周辺はミニミニ横浜ランドマークという感じだった。ボクは慣れない車で,そろそろ腰痛が出始めていた。

「シップ薬を買いたい。」

と,頼むと,ヨンエが薬局でと薬品名を挙げて薬剤師と話し,てきぱきと買ってくれる。彼女の仕事は看護婦だった。明日は遅番なので,ジョーと一緒に慶州を案内してくれると言う。

駅前に聳えるモーテル「MOU」は45000ウォン(4500円)という破格の値段だったが,広い部屋にはパソコンまでついていた。ボクはインターネットで母のHPのBBSに書き込みしたり,メールチェックをしたりして,ドレミは思う存分洗濯できた。

寝る前に,オリンピックでも見ようかとテレビのチャンネルをいじくっていると,画面にアダルトビデオのペイ(有料)チャンネルの案内が出た。なぜ読めるのか一瞬不思議に思ったが,よく見るとそれは日本語だったのだ。

例によってパソコン画面もキーボードもリモコンも全部ハングル文字なのになぜだろう。日本人向けにしては,他には日本語の案内はひとつもない。AVシステム自体が日本からの輸入なのかもしれない。

画面を進めてみたかったが,すでに寝ているドレミに,妙な疑惑をもたれるのも格好悪いのでやめた。

翌朝,待ち合わせの7時ちょうどにモーテルを出た。約束場所は目の前の駅だし,何しろコリアンタイムである。

果たして,15分くらい遅れてあたふたと駆けてきたジョーが,

「ヨンエが寝坊して遅れる。」

と告げた。携帯をかける様子からヨンエがパニックにおちていることが伺える。「あわてなくていい。ボクらはたくさん時間がある。」と伝えてもらった。

ほんとうは掛陵にだけは,観光客の来る時間の前に着きたかったが,ジョーが「案内してくれる」と言ったときから覚悟はできていた。ヨンエを待つ間に,ジョーの両親の職場を訪ねることになった。かさばっていた最後の吟醸立山とひよこがようやく手元を離れる。ジョーの家は蔚山市場の中で卸店を経営していた。

市場は規模こそ小さいが驚くほど築地市場とそっくりだった。めっぽう男前のお父さんの店は鮮魚の一角にあり,ボクたちを大歓迎して,ジュースを買ってきてくれた。

ボクたちはちゃっかり,「チョーウムペケスムニダ」だけでご両親と周りのお店の人たちの喝采を浴びるのに成功した。

太刀魚が旬らしい。

「日本では,刀の魚って言います。」

と,ジョーの通訳で話しながら撮影していると,お父さんが


「今日はとびきりのが入荷している。」

と,まるで取引のお客さんに話すようにとっておきの箱を指差す。見ると,五島漁港に水揚げされた太刀魚だった。細身でぴかぴかと美しい。


乾物や青果市場をめぐって蔚山駅に戻ったが,ヨンエはまだ来ていなかった。看護婦の激務を思うと,貴重な遅番の朝に気の毒なことをしてしまった。市場でジョーのお父さんがくれた箱のぶどうを食べて待っていると,ヨンエがタクシーからウサギのように飛び出してきた。

「I'm sorry, I've overslept myself !!」

なんだ,やっぱり英語話せるんじゃん。ボクは思いつく限りの慰めのフレーズを並べた。

市内を出るまで,ジョーの車の後ろについて走るのは楽だったが,予想通り,掛陵の近くで道に迷った。初めての場所で,目的地にたどり着くだけなら,たとえ慶州でもボクの方が上手だろう。実はドレミも地図上で現在地を把握している。が,せっかく一生懸命なジョーとヨンエに任せていた。道を聞きに派出所まで駆けて行って戻ってきたジョーが首をかしげながらヨンエに話しかける。とうとう見かねて秘密兵器を地図ごとジョーの車に送った。ドレミは前の車に乗って,いとも簡単に掛陵の入り口に車を導いた。

「王陵のそばに,石人がいる。花崗岩のその彫像は千数百年の風霜のために風化がはなはだしいが,それでもなお文官である宰相は冠をただして立ち,武官である将軍はひじを張り,剣を杖ついてもし侵入者がくれば一喝してしりぞけようとしている。

(司馬遼太郎「街道をゆく2/韓のくに紀行」)」

このくだりを読んで震えながら感動した日から20年,ボクはついにその石人の前に立った。まぶしいほどの夏の緑が墳墓を覆う。松林の木陰に老婆がじっと休んでいた。

仏国寺にはすんなり着いた。ジョーも仏国寺にはよく人を案内してくるそうだ。ドレミが駐車場からチケット売り場まで猛ダッシュしたが,すでにヨンエが4枚のチケットを持って待っていた。


「韓のくに紀行」は仏国寺の項も幻想的で美しいが,現在の仏国寺は完全な観光地になっている。この寺もオリジナルのものはほとんど残っていないが,寺の場合,王宮などとは少し事情が違ってくる。


仏国寺もその焼失は慶長の役によるが,慶州そのものが朝鮮,明,日本軍が入り乱れる激戦地だったから戦闘中に焼かれたものだろう。そしてその後も再建されないまま放置された。


これは李王朝が儒教を重んじ,仏教を半ば弾圧したことの影響が大きい。最近(1969年に発掘再調査)まで,どの政権も,地元自治体すらもこの歴史遺産を放置し続けた。発掘のあと急ピッチで復元されたのが現在の仏国寺である。


カメラを担いでいると美しい屋根や塀はとても魅力的だ。すっかり観光気分で大雄殿の前まで来たボクは中を覗いて少したじろいだ。仏間では,ジーンズを穿いた数人の若い女性が正座している。遠来らしい彼女たちは何度も板の間にひれ伏してお経を唱えていた。政治が無視しようと弾圧しようと信者たちの信仰心とその健気さは世界共通である。


「ヨンエが朝からろくなものを食べていないだろう。」

と,ボクらは半ば強引にお礼の豪華昼食を申し出た。この日も車の冷房が効かないほどの暑さで食欲はないのだが,何しろ,昨日のチキンから仏国寺の入場料にシップ薬まで奢られっぱなしではきまりが悪い。


「ハンバーグとかイタリアンでもいいんだよ。ヨンエの食べたいものを言ってよ。」

そろそろ韓食がきびしくなってきた下心を隠してボクはそう言ったが,もちろん二人はボクたちの旅の思い出になるよう,懸命に韓食堂を物色してくれた。

しかもバリバリの韓流だ。ちょうど旧街道沿いの老舗そば屋の風情である。そしてやっぱり出てきたのは豪華具材の鍋だった。同室の隣の席も鍋,向かいの部屋も鍋がぐつぐつ。

くどいようだが,空気がぴりぴり痛いほどの暑い日だ。大人も子どもも男も女も額に汗をにじませながら,真っ赤な鍋をつついている。日韓戦がたとえPK戦になっても最後は韓国に勝てない訳は鍋とそうめんの差かもしれない。ヨンエが甲斐甲斐しくボクらの鍋を小皿に取り分けてくれる。当然ボクの小皿はてんこ盛だ。もう一品はチャーシューのようなスライス肉で,焼肉と同じようにゴマの葉に巻いてタレで食べる。かなりこってり系だが,冷たいので食べやすかった。

食事が終わって駐車場まで来たが,別れがたくなり,

「喫茶店に行こうか」

ということになった。案内されるままついていくと,果たして重厚な建物の伝統喫茶。ボクはざっとメニューに目を通したがアイスコーヒーはなさそうだ。それ以前に字が読めない。

「任せるよ。」

テラスの席に運ばれた4種類のアイス伝統茶をかわるがわる味見して,任された彼らも驚いている。やはり若い人たちは飲まないらしい。

二人の馴れ初めを聞くと,インターネットのサイトで出会ったという。さすがネット先進国だ。結婚するつもりだが,ジョーはまだ学生だし,韓国の結婚は家同士のことなので大変だという。先端IT技術と伝統が交錯していた。薬草茶の効果か日が傾き始めたのか,少し暑さがやわらいだ。

別れの時が来た。

「ケーサンソ」

と,ジョーがヨンエに言った瞬間,ドレミとボクの手が同時に彼女の前の勘定書きをさらった。いろはカルタで鍛えている日本人をなめてはいけない。

「うー。shuたちはケーサンソの意味がわかるんだった。」

お勘定は「計算書(ケーサンソ)」だ。漢語からきていることばはすぐに覚えられる。

「結婚式には連絡してくれよ。」

「必ず」

「アンニョンヒーカセヨ(さようなら)」

「アンニョンヒーケセヨ(さようなら)ー!」

ボクらは北へ向かった。


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