第1章/縁(えにし)

Jan, 2008

◆#1/きまぐれ◆

ボクはその春,大学で音楽の特別講義を受けていた。春休み中に5日間連続の講義を受けると単位がもらえるこの特講は,進級時に一般教養の単位が足りない学生を救済する意味もあって人気が高い。専門教科はボロボロだが一般教養の単位は足りていたボクが,必要のないこの特別講義を申し込んだのにはちょっとしたわけがあった。

ひとつは学生運動で新入生歓迎イベントの準備のため,どうせ休み中,毎日登校しなければならなかったこと,もうひとつは掲示板に張り出されたリストを見たとき,その講義名がかすかな記憶を呼び起こしたためだ。

「コダーイシステムの理論と実践」…コダーイとはハンガリーの作曲家の名前だが当時のボクはクラシック音楽にはてんで興味がなかったので,もちろんコダーイの曲を知っているわけではなかった。ただ一年生のときに受けた音楽の講義で教官がコダーイシステムという言葉を使っていたのが脳の端っこにでもかすかに残っていたにちがいない。と言うのも,ボクは週一回その音楽の授業を半年受けただけで,簡単な楽譜を階名で歌えるようになり,少なからずこの教育法に驚いていたのだった。メジャーな教育法ではない。ボクのクラスがちょうどその教官の担当になったのも,単なる偶然だったろう。それだけにどんな理論なのかちょっと知りたい気持ちがあった。

いずれにしてもその特講をボクが受講する気になったのは,こうしたほんの気まぐれと偶然からだった。

講義の初日,大教室に集まった学生は9割方が音楽科の学生だった。他学科から参加した学生もみな何がしかの楽器に習熟している風でボクのようなド素人はいない。さすがに場違いに気づき,逃げ出そうと思ったが時すでに遅し。教室の扉が開き,拍手に迎えられて二人の講師が入ってきた。一人は初老の女性で,当時共産圏だったハンガリーからコダーイシステムを日本に紹介した羽仁協子先生。そして従っている女性が第一人者の大熊進子先生だった。羽仁先生が挨拶している間に進子先生は小学生並みの小柄な体を反り返らせてドングリのような目をぎらぎら光らせながら学生たちをヘイ睨した。ボクは後にも先にもこんな鋭い視線を持った人を知らない。その目がボクのところまで来て一瞬止まり微かに笑ったように感じた。華奢な体に丸顔の美人だから上気した顔はちょっとお芝居にでも登場する子鬼のようでもある。

その日のボクは音楽科の授業に出るという照れもあって茶髪のカーリーヘアに黒いマントを着ていたので目立っていたのは確かだ。しかし子鬼の方が上手だった。同じ茶髪カーリーにさらに明るい色のシャが入っていて衣装にはスパンコールが光っていた。

羽仁先生の講義には熱がこもっていたがそもそも音楽科の女の子たちはたいてい理論的な話が苦手だ。熱心に聞いているのはボクくらいで教室は気だるい雰囲気が漂っていた。それが一変したのは子鬼が教壇に立ったときだった。実践の授業なので学生はわらべうた遊びから混声合唱まで,幼児や生徒役になってきりきりまいさせられた。祖母の唱える「男子歌舞音曲を禁ず」という家訓の中で育ち,およそ音楽と縁のなかったボクこそ哀れであった。が子鬼の指導ぶりは舌を巻く鮮やかさでそんなボクでも何とか形ばかりはついていくことができた。

◆#2/進子先生◆

この進子先生が車好きのヘビースモーカーでなかったらこの話はたぶんここでおしまいだったろう。

講義の休み時間,学生が集まっている喫煙所に子鬼がすたすたと歩いてきた。男のように口の端に煙草をくわえるのでボクは素早くZIPPOを点火して捧げるように差し出した。すると額に皺を寄せながら紫煙を吐いた彼女がいきなり言った。

「あなた,いい声ね。」

ボクは白昼に幽霊を見るほどに驚いた。声がいいかどうかはさておいて,この人は70人近い学生の合唱を初めて指揮しながらボクの声を聞き分けたのだろうか。

「何と申し上げればいいのか…,歌声をほめられたのは生まれて初めてです。」

ボクはかろうじてそう返事した。

「そう。面白い髪型ね。さっき吹き出しそうになったわ。」

…それはお互い様である。

「あのマキシマターボ,先生のですか?」

ボクは3階の窓から建物の入り口に寄せてあるグレーのセダンを指差した。子鬼は初めてにっこり笑いながら肯いた。そのセダンはフェアレディZ用に開発されたV6ターボエンジンをFFブルーバードに搭載して話題になっていた車で数日前に発売されたばかりだった。あとで聞いたことだが,彼女は日産に勤めていた教え子を締め上げて発売と同時に品薄だったその車を手に入れていたのだ。

こうしてボクはへろへろになりながら授業を受けては,喫煙所で先生と雑談するという5日間をけっこう楽しんだ。とても気の合う人だったが喫煙所以外での彼女は音楽科の教官や学生に取り囲まれて近寄り難く,最終日にも挨拶することすらできなかった。

第2章へTOPへ戻る