第3章/音楽教室

Jan, 2008

#5/コンサート

そのままボクは音楽教室の重要スタッフの一人になっていった。進子先生がイギリスやハンガリーの合唱協会からの招へいを取りつけて,その夏合唱団はヨーロッパ遠征を控えていた。そのために山積した教室の事務をボクが次々にこなしていったからだ。

外国の協会とやりとりする様々な文書を英訳和訳し,団員の所属する小中学校には遠征の概要と意義を説明して長期欠席への理解と配慮を求める文書を書いた。それらを進子先生は一読しただけで採用してゆく。教室を訪ねてから10日もたっていないのに一度信用したら決して疑わない。もっともA市やS区にも教室を展開していて,忙しい盛りだったので(自分で言うのも何だが)事務の器用なボクは彼女にとって思わぬ拾いものだったかもしれない。秘書兼マキシマターボの運転手となり教室から大学やバイトに出掛ける日もふえた。さらに

「これ,使えるようになってちょうだい」

と渡された大きな機械は市販されたばかりのワープロだった。信じられないかもしれないが当時のモニターは一行しかない。これでパンフレットのような文書を組むのは至難の業だ。ボクも触るのは初めてだったが,半角の文字数を数えて表組みまでできる入力法を編み出した。それをマニュアルにもしたが先生を始め他に誰も使える人がいないので,結局ボクは会報やプログラムの編集長にも就任した。

合唱団員との接点は相変わらずガラス戸越しに練習の歌声を聴くばかりだった。団員たちの方でも突然現れた新しいスタッフに戸惑い気味だった。中でもドレミたち高校生は「合唱団命!」で進子先生の音楽性に心酔していたから,尊敬してやまない先生が連れてきた謎の男に不審と羨望を隠さない。しかも謎の男は鬼より恐い進子先生をからかって笑わせたりしているではないか。いったい何者だろうと興味は尽きない。

ボクがドレミと初めて話したのは,5月19日,ヨーロッパ遠征の壮行会を兼ねた大きなコンサートのときだった。すでに団員の名をそらんじていたボクは先生から渡されたプログラム原稿の出演者欄にドレミの名前がないのに気づいた。メゾの主要メンバーの名を出演者リストから外すことになるので先生に確認すると,

「その子はお家の事情で遠征に行けないから今回のメンバーから外したの。当日の進行係してもらうから名前はそっちに書いといてくれる?」

と珍しく歯切れの悪い口調で答えた。

主要メンバーで一人だけヨーロッパに行けない?

あの日ファインダーに映った陰のある表情が目に浮かんだ。この頃ドレミの両親の不仲は決定的になり,父親は…今ではボクたちの愛犬タローをとても可愛がってくれる気のいい義父だが…家に帰らずに夜の街を飲み歩く荒れた生活をしていた。3人兄弟の長女だったドレミはとてもヨーロッパに行ける状況ではなかったのだ。

コンサート当日,ボクとドレミの会話は進行係と裏方の責任者としてのほとんど事務的なものだけだった。舞台裏でのそれぞれの仕事は多忙をきわめていた。

6月,合唱団はヨーロッパ遠征に旅立った。進子先生は教室兼自宅の鍵をぽんとボクに渡して

「留守をお願いね。」

と言った。弦楽団を率いるご主人はじめ教室のスタッフはすべて遠征メンバーだったので仕方ない。留守中わらべうた教室の指導を任されたのはこちらも当然ドレミだった。合唱団と進子先生が心の支えの全てだった彼女にとって,何年もかけて準備してきた最大のイベントであるヨーロッパ遠征に行けないことはどんなにか辛いことだろう。ボクはガラス戸越しにわらべうた教室を教える声を聞きながら彼女を励まそうと手紙を書いた。

最近見た「未知との遭遇」という映画のクライマックスシーンで,宇宙人と人間が最初に交わした言語が音の波長を制御したペンタトニック(五音音階)による音楽と光の波長を制御した色彩だったのに感動したこと,わらべうたが持つ民族性と拍感が幼児教育に不可欠であること,公教育の現状と芸術教育の重要性。ボクにとってそれは未来を熱く語るラブレターだったが高校生のドレミにとってはちんぷんかんぷんの論文だった。

誠意だけは伝わったらしい。

◆#6/家庭教師◆

その夏の初め,ボクとドレミは3日間山中湖の同じ宿泊施設にいたが,とうとう一度も顔を合わせることがなかった。

合唱団は毎年山中湖で夏合宿を行っている。進子先生はこの年,同じ施設を借り切ってコダーイシステムのサマーセミナーを協会と共催していた。そしてセミナーの事務局長も引き受けていたが実際には分科会の講師やらハンガリー語の通訳やらで手いっぱいだったから実質的な事務担当者としてボクを連れて行ったのだ。

セミナーには主に小中学校の音楽の先生たちが全国から大勢集まり講師はハンガリーから招待されていた。そして楽譜や関連書籍の販売ブースを出す出版社,CDを売るレコード会社の関係者などが出入りする。それらすべての案内や問い合わせが事務局,すなわちボクに集中した。合唱団の休憩時間にでもさりげなく顔を出し,あわよくばドレミを湖畔のデートに誘おうなどと考えていたボクの目論見は外れた。事務仕事に加えてハンガリー人講師たちが空き時間にやってくる。

「シャニー(ボクのハンガリー語の愛称)海が見たい。アタミに連れてって。」
「ハコネは火山ですって?」

またぞろ子鬼が知恵をつけたに違いない。山中湖から箱根を経由して熱海まではぎりぎり講師たちの空き時間で往復できる距離だった。結局,合唱団の歌声すら聴くことなくセミナーは大忙しのうちに終わった。

密かに「こんな仕事をできる人間は他にいない」と思っていたら子鬼もそれはわかっていたらしく,東京に帰ると学生としては破格の給料をくれた。それでボクがすっかりいい気になっていると,夏以降の協会関連のイベントはほとんど進子先生が「あ,いいわよ。任せて」という軽いノリで事務局を引き受けてきた。こうしてボクの仕事は協会にも広がり,全国音楽なんとかゼミとか日ロ芸術友好なんたらとか,毎週のようにあるイベントの裏方を担当した。一方,音楽教室には次々とハンガリーからお客さんが来るようになった。もともと進子先生はコダーイシステムを学ぶために,長くハンガリーに留学していたので知り合いが多い。そこに先の遠征の際,あちこちで調子よく「日本にいらっしゃい。」とやってきたのだろう。折りしも筑波の科学万博が海外でも評判になっていた時期である。お客さんは著名な民族楽器の演奏家からブダペストで最も由緒あるホテルの総料理長まで様々だった。教室を動けない彼女に代わって,ボクは成田,東京駅,皇居,富士山,日光,筑波とマキシマターボを走らせた。

そんな秋のある夜,大学から教室に出勤?すると,進子先生が珍しく真顔でコーヒーを勧めた。

「私立音大の付属高校に通ってる団員がおうちの事情で音大に進学できなくなったから,G大受けさせようと思うのね。」
「G大ですか。」
「そう。わたしたちの後輩にするのよ。」

確かに国立大教育学部の学費はびっくりするほど安く奨学制度も充実しているので,たいていの事情はクリアされるだろう。しかし…。

「大丈夫。バイオリンでD類を受ける力があるわ。F先生に習ってるし,G大教授のレッスンも受けさせる。ソルフェージュは私が教えます。共通一次(今のセンター試験)はあなたが何とかしなさい。わたしもあなたも無料よ。」

「やらせてもらいます。」

一瞬も置かずに即答した。その団員とはドレミのことだとすぐにわかったが,それだから引き受けたわけではない。教室が総力を挙げて一団員を大学に合格させるというプロジェクトにわくわくしたからだ。当時のボクは売れっ子の家庭教師で英語と数学の指導には自信があった。共通一次担当はボクをおいて他にはないだろうという自負もあったかもしれない。

数日後,教室の奥の和室で先生はボクにドレミを紹介した。団員にとっては聖域と言える部屋に初めて入った緊張からがちがちになって座っていたドレミが,紅潮した顔でボクを見上げぺこりと頭を下げた。

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