第5章/未来へ

Jan, 2008

◆#9/岐路◆

再会したドレミの心は荒んでいた。

世の中の全てを憎むかのような視線を絶えず斜め下にして無意識に幾度も大きなため息をつく。ボクは彼女の最も辛いときにそばにいなかったことを悔いた。長い冬の間ドレミの支えは友だちと合唱団だけだったのだ。

初夏を迎え,大学は教育実習の季節に入った。教育学部の学生はフルに実習をこなして教員採用試験を目指す者と一般企業などの就活者とに分かれる。ボクは実習を選んだが教採を受けるつもりはなかった。学友たちはボクがかつてビラにして「読もう」と呼びかけたとき,黙ってゴミ箱に捨てていた臨教審の答申を今度は教採の出題ポイントとして暗記し始めた。

「shuは学生運動で去年から読んでたから有利だよな」
と言う友だちに,ボクは
「まあね」

と答えるほどには大人になっていた。が,心の中でこいつらと同じ職場で机を並べるのは真っ平だと思っていた。青臭い正義感はまだまだ子どものそれだった。教育行政との戦い…自分では滑稽にもそれに批判の声をあげることが戦いだと思っていた…にも絶望していた。公教育は「個性化」「国際化」を掲げ,資本主義社会のグローバル化を追随してゆく。

実習は協力校と付属小学校とで連続して2週間ずつあった。子どもたちの前に立てば誰にも負けない。ボクはどちらの実習でも同期を代表する研究授業の授業者に選ばれて,担当教官のA教授を招いた。退官間近だったA教授はいつもボクのことを心配してくれていた。だから研究授業はボクが在学中にできた唯一の恩返しだった。

その実習期間中,ボクは一度だけドレミに会った。彼女が入試のためピアノレッスンに通っていた駅に待ち合わせて実習先から直接会いに行ったのだ。

ドレミの落ち着きのない拗ねたような視線を気にしながらも,ボクは実習の出来事をおもしろ可笑しく話して聞かせた。ドレミの目が和らぎ,楽しい会話に思わず時を忘れていた。ボクはその日の後の予定をドレミに尋ねた。父方の祖父母の家に寄る約束の時間を過ぎていると言う。ボクは慌ててドレミを促した。彼女の目がまた暗い色を帯びる。

「いいのよ。おばあちゃまは何か私にあげようと思ってるだけなんだから。もらいに行ってあげればそれで満足する…」
「バカやろー!」

夕暮れの商店街にドレミの頬がなる音が響いた。行き交う人は無関心に二人のそばを通り過ぎてゆく。

「少しはおばあちゃんの気持ちも考えろ!何とか会いたい,会って話しがしたい,その一心のはずだ!それを何ていう言いぐさだ!」

ドレミは驚いたように頬を押さえて真っ直ぐにボクを見たが泣かなかった。

「だいたい,お前は両親の仲が危ないときに,すぐそばにいながらいったい何をしてたんだ。小さい弟もいるのに,高校生の長女が何もしなかったですむと思ってんのかよ!」

ドレミが何かを確かめるようにゆっくりと首を横に振った。

青春だった。恥ずかしいほど青春だった。そもそも,25才にもなって親のスネをかじりながらヨーロッパに遊んでいたボクにこんな偉そうなことを言う権利はない。が,その矛盾もまた青春だった。

「急いでおばあちゃんの家に行きな」
「うん」

改札を小走りに抜けていくドレミを見送った。ふつうならこれで終わりなってもおかしくない展開だがドレミはふつうではなかった。この事件をきっかけにボクとドレミの立場は逆転した。ドレミにとって,絶対の相手は進子先生からボクにシフトした。ボクはまだ指一本触れてもいない恋人にとって,兄のような立場にもなってしまった。ますます指一本が遠ざかっていく。

◆#10/夢◆

辛い日々を送っていたのはドレミだけではない。両親とそれぞれの親族は親権などをめぐる裁判所の調停などで対立し誰の心もささくれ立った。ボクとドレミも自由に会うことができないばかりか,関係を疑われて…もっとも明らかに疑わしいのだが…通信添削も届かなくなった。ドレミには60円切手(当時)のシートを渡した。ボクからの手紙は親友のチョコちゃん宛に送り高校で手渡してもらうことにした。

翌春ドレミはG大の音楽科に合格した。ボクの担当だった共通一次試験は,数学がぼろぼろだったが,ほぼ満点だった英語でカバーし何とか及第点だった。しかし音楽科の受験生には,幼い頃から教授のレッスンを受けている教え子もたくさんいる。全くコネクションのないドレミが合格するのは至難だった。凍えるような寒さになった二次試験当日の朝,ボクは大学でドレミの指をお腹に当てて温めた。大げさに身をよじってみせるボクを見てドレミが笑った。落ち着いていた。M音楽教室の実力が笑顔に垣間見える。このときもう奇跡は起きる予感がしていた。

ドレミと入れ替わりに卒業するボクは全く進路も決まっていなかった。夏に二度目のセミナー事務局を務めたが,日本におけるコダーイシステムの効果に疑問も感じ始めていた。ハンガリーではふつうの女学生やサラリーマンがおしゃべりしながら歩いていて,いきなり合唱曲をハモり出したりする。いわゆるインプロミゼーションと呼ばれる即興で,音楽は生活の中に息づいている。公立小学校の6割が音楽小学校で,コダーイシステムをその中核に置いていた。情操面だけでなく教科教育にも良い影響が実証されている。一方,日本の音楽教育は50年遅れていると言われて久しい。そもそも音楽教師のほとんどがC=ドという固定ドでしか歌えない。救いようのない野蛮さだ。

M音楽教室の実践は進子先生が持つ桁外れの音楽性とカリスマ性に拠るところが大きい。つまり「誰もまねできない」と言うことだ。システムと言うからには,誰でも同じように教えて同じ成果が得られなければならない。この問題でボクはしばしば進子先生と対立し,いつも議論は平行線になった。

学校や就職先に恵まれなかった教育学部の学生はたいてい東京都の臨時講師として働きながら次の教採を目指す。実習の成績がオールAだったボクには聾学校の美術教師などたくさんのオファーがあった。しかしボクにはその意思がなかった。ドレミと音楽教室を作ってやろうと企てていたのだ。もちろん,ボクが改めて一から音楽の勉強をしようと言うわけではない。進子先生の活動はバイオリン指導者であるご主人の収入に支えられている。同じことを学習塾を経営してバックアップしようと考えたのだ。そして草の根から日本の教育を改革しようと本気で思っていたのだから,若いということはどうしようもない。ボクは経営のノウハウを知るためと生活費のために,進子先生の教室に便のいい横浜で,学習塾にアルバイト講師の口を見つけた。さすがにさんざん我がままを言ってきた両親に,今度は「教師になるのはやめた」とは言えず,ワンルームのアパートで一人暮らしを始めた。フリーターのはしりかもしれない。

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