Apr.2012
言葉が通じないから精一杯の会釈。それに見知らぬ町の人が笑顔で応えてくれた…たったそれだけのことが身に沁みるほど嬉しいという経験…旅先のそんな経験は社会的動物としての人間の本質的な喜びをもたらしてくれます。そしてそれはまた,ふだん自分のコミュニティーやテリトリーという居心地のよい井戸の中で,ついオレサマ的思考に陥りがちな蛙が,自分というものを客観的に見つめ直すよい機会でもあります。
安定した保守的生活を肯定的にとらえようとしても,実は自分が守り保とうとしている変わらぬ日常生活などというものは存在しません。全ては移ろい滅び,変化していくものなのだと万葉集にも平家物語にも書いてあるのに,人はついその現実から目をそむけようとします。
だからボクたちはときどき遠くへ旅に出ます。言葉もわからない異邦人になるなら尚さらよいのです。所属からも肩書きからも血縁からも切り離されたただの人間として一期一会の笑顔に出会う旅へ。
「シュウ,寝てなかったの?」
ぼぉーっと旅のことを思っていたので,ドレミがショッピングから帰ってきたのに気づきませんでした。あるいは少しウトウトしていたのかもしれません。
「あー,疲れた。」
妻が服を脱ぎ捨てながらベッドに這いのぼり,そのまま腕立て伏せのような姿勢でボクの上にやってきました。
「ずいぶん,早かったじゃん。いっぱい買い物できたのか?」
彼女の持って帰ったのはビニールのレジ袋ひとつで,どう見てもブランドもののバッグや靴は入っていそうにありません。至近距離で妻が笑います。
「それがね,ちっとも安くないのよ。ブランドのカバンってタックスフリーでもとても手が出ない。洋服はちょっと合わせてる時間ないし,それでお土産のチョコレート買おうと思ったんだけど,あしたも晴れでしょ?車の中に置いておけないし,…ムリでしょ?チョコ。融けちゃうでしょ?だからあきらめてスーパーに行ったら,ほら,シュウのTシャツ。これ選んでたらもう1時間以上たっちゃってて…」
「あ,あのさ…」
「え?」
やっぱりTシャツとかつまらないものばかり買ってきたんだと思うと,愛しさがどうしようもなくこみあげてきます。いきなり引き寄せたので体の上に細い体が落ちてきました。それをぎゅっと抱きしめていると,どうもボクが旅に出るのは,実は諸行無常を確かめるためなどではなくて,こんなふうに妻の笑顔が見たいだけだったような気がしてきました。
外は明るく,パエリア屋のテーブルを予約した夜8時まではまだ1時間以上あります。
…いけない,いけない。遅くなっちゃった。
もちろん,ボクがグズグズと起きなかったからです。エレベーターを待たずに階段を駆け降ります。たとえ時間にゆる~いスペイン,アンドラにあっても,時間厳守はドレミの信条です。
ぴゅーっ!…ドレミ,歩くの速いです。どすどすどすどす…どすこいのボク。
ぎりぎりインタイム。息を切らして,予約してあるパエリア自慢の店に飛び込んだのに,シーンと静まり返ってお客さんはまだ誰ひとりいません。
ん?午後8時,時差にサマータイムを考慮しても日本なら夕方6時頃の見当です。なぜ誰もいないのでしょう。
棚にワインと並んで泥ねぎが陳列してあります。…なぜネギ。これが新鮮食材のアピールになるんでしょうか。
…時間もネギも外国人のボクたちがいくら考えたってわかるはずないので,いちいち気にするのはやめましょう。
イカ墨の海鮮パエリアです。お通しがこれまたこんがり焼いてトマトをなすりつけたフランスパンとサラミどっちゃり。あれこれ食べたくてもこれ以上とてもムリです。ああ,胃袋がもう一つほしい。せめて…
おすすめの辛口ワイン,ボトルで持ってきてよ。
…ワインのメニューが読めません。ま,高かったらそのときです。バールだし。ほどなく酔っ払ってハイテンション。
うまいなぁ。赤ワイン,ボトルで追加ー。
ふと気づくと,いつの間にやら店内は超満員。昼間はあまり見かけませんでしたが,こんな田舎でも労働者にはアフリカ系の移民も多いようで客席の人種も様々です。この感じならワインの値段の心配はしなくてよさそうだね。
じゃじゃじゃーんとテレビでリーガエスパニョーラ中継が始まりました。フランス側にはトゥールーズ,スペイン側にはジローナという近くの町にクラブチームがあるはずなのですがどちらも成績はぱっとしません。やっぱりアンドラあたりでは,バルサ・大鵬・卵焼きでしょうか。画面では,メッシが入念なウォーミングアップをしています。
「(おじさん,あれ)メッシ?」
「…(そうさ。今日もやってくれるぞ。)」
え?リーガ31節ビルバオ戦,カンプノウ(バルセロナ)から生中継?
午後10時キックオフ…って,まだ1時間もあるじゃん。ウォーミングアップから生中継してるんだ。試合が終わる頃には今日も終わるよ。リーガエスパニョーラの時間はバールの営業時間に合わせて決めるそうです。「バールでリーガ」したかったけど,ここであと3時間飲み食いハイテンションを続ける体力はとてもありません。
古い町並みを通ってホテルに帰ります。
はぁー,長い一日だったなぁ。朝,バルセロナにいたなんて遠い昔みたいです。さあ,ゆっくり寝ようか。
「シャワー浴びたら洗濯しまーす。」
と,ドレミ。
え?もう?
「そう,今度いつ清潔なバスタブのあるホテルに泊まれるかわかんないもん。」
ほええ。相変わらずの几帳面。だけどとりあえず裸で洗濯はやめてくれ。
「ごしごしごし!はい,シュウは絞り係。」
ぎゅぎゅぎゅーっっ!
「ごしごし!すすぎ,じゃー!!はい次!」
ほぃ!!ぎゅっぎゅっ!
…長い一日はなかなか終わりません。