Apr.2012
フランス領バスクには羊が多く見られます。美しい牧場をいくつか抜けると,丘の上に城館が見えてきました。
20数年間,夢にまで見てきたサン=ジャン=ピエ=ド=ポルです。
あいにく国道が雪融け後の補修工事中で,数百メートルほどしかない旧市街は大渋滞していました。ちょうど,通勤ラッシュに観光客のチェックインも重なる時間です。
ボクはナマズの巨体をもてあましながら,ドレミを観光案内所に走らせました。町を一目見て何が何でもこの街に泊まることを決めたのです。観光用の駐車場にスペースを見つけてナマズを停めたボクがあとから観光案内所に行ってみると,驚いたことにドレミの後ろに日本人の男の子が二人も並んでいました。
一人は背が高く,柔らかい物腰の二枚目男でした。東京のレストランで働きながら,お金が貯まるとヨーロッパを歩く旅に来るのだと言います。もうひとりはバスでたコック志望の小柄な学生で,修行のため南仏料理の食べ歩きをしているところでした。ボクたち4人がお互いにどれほど驚いたかご想像頂けますでしょうか。例えばボクとドレミはバルセロナを出て以来,日本人はおろか東洋人とすら一度も会っていませんでした。ここらあたりはそういう地域です。北から来た彼らもそれぞれ同じだったようです。それが小さな町の小さな案内所で偶然出くわしたのですから…。
案内所の若い女性が,
「これはあなたたちの国の文字ですか?」
と,聞きながら日本語のリーフレットを出してきました。ボクらがうなずくと,束の帯にマジックで「Japon」と書きながら流暢な英語で言いました。
「教えてくれてありがとう。パリやマルセイユの東洋人観光客は,最近,中国人と韓国人の方がずっと多いらしいけれど,この辺ではまだ日本語のパンフレットだけね。それで(ご用は)?」
ボクは少し迷いました。並んでいる間に,旅慣れたイケメン男がボクたちに巡礼宿を勧めてくれたからです。それはとてもとても魅力的だったのですが,メルセデスのレンタカーを巡礼宿に乗り付けるのはいかにも無粋な気がしたので,ホテルを紹介してもらうことにしました。数泊しかできない旅でもあるので,夜にはごちそうも食べたいのです。
ベンチに座っているお年寄りにホテルの場所を尋ねると,肩を抱くようにしていっしょにホテルまで連れて行ってくれます。フロントでは「あいにく満室だ」と,言われましたが,言葉の不自由なボクたちを見た女主人が電話をかけまくって,近くの別のホテルに予約を入れてくれました。旧市街の入り口付近にあるおしゃれなホテルです。チェックインしたボクたちは,さっそく城壁の中に散歩に出ました。
暮れ始めた石畳の町は幻想的な光に包まれ,まるで中世に迷い込んだかのような錯覚に陥ります。ドレミはどこのお店にすいこまれたのか姿が見えません。夢中でシャッターを切っていると,構図に入った男がファインダーの中で手を振っています。ベレー帽はバスクの男の印です。ボクも手を振りながら彼の青い目を見ていたら,バスクにいるという実感が急に突き上げてきて胸がいっぱいになりました。それが伝わったのでしょう,ボクが真っ直ぐ男の方へ歩いてゆくと,彼が大きく両手を広げて,ボクらはいきなりハグをしたのです。
ボクは17世紀につながっていそうな横道で何やら買い物をしているドレミを見つけると,急いで手を引き,ベレー帽男が店じまいしているところに戻りました。男の店はトレッキング用品や自転車用品などを主に扱っていました。雨具や帽子なども売っています。巡礼路はここから険しい山道になりますから需要は高そうです。
もちろん,ボクは登山用具を買いに来たのではありません。何でもいい,男の店で買い物がしたかったのです。ドレミとボクは身ぶり手振りで男と話し,ホタテのマークのついたベレー帽を買いました。そして帰りの飛行機に乗るまで,ずっとそれをかぶっていたのです。
店を出ると,案内所で会ったイケメン男が手を振りながら坂の下から歩いてきました。
「マーケットでパンを買ってきました。今夜の夕食です。」
よく考えるとこの男もどこかヘンです。いまどきの日本にこんな穏やかでキレイな敬語を操る若者がいるとは思えません。もしかしたら彼も別の時代の日本からこの町に迷い込んだのかもしれません。
「あしたはパンプローナにお泊りの予定なんですか。またお会いしたいです。私もパンプローナ泊まりにします。」
「ムリだろう。距離がありすぎる。」
若者はアイフォンを取り出して画面の地図をスクロールしました。インターネットに接続してはいないようですが,地図は予めダウンロードしてあるようです。やっぱり現代の若者なのでしょうか。
「大丈夫,行けます。会えますか?」
「じゃあ,古城の正門で会おう。明日の夕方7時。」
「はい。」
若者はパンを持って巡礼宿に入って行きました。夕食に誘いたかったけれど今日のところは遠慮しておきます。羨ましいほどの若さで,巡礼者たちの輪に加わっていることでしょう。明日,首尾よく会えたら再会を祝すという名目でごちそうさせてもらうことにします。
←彼が泊まった巡礼宿。
ドア越しにドレミが連絡先の交換(#1)をしています。
ボクたちは若者と別れて城館に登っていきました。
サン=ジャン=ピエ=ド=ポルの町が一望できます。ときどき,犬を連れた地元の人や観光客が登ってきてはまた下って行きます。遠くの山が墨絵のように美しくかすんできました。
「ドレミ,あそこの展望台に立ってくれ。」
「ん」
上の写真もそうですが,ドレミが遠くで点景になっている写真は,何気ない風を装いながらその実,タイヘンな苦労をして撮影しています。2枚ともドレミは石段を数十段登ったり下ったりして,100m以上離れた場所まで走っています。もちろん声は届かないので,立ち位置やポーズは激しいボディアクションで伝えます。
シルエットになる横顔の角度を指示するために激しく両手を動かしていると,背後に人の気配を感じました。シャッターを切ったところで振り向くと,さっき別れた若者が困ったように立っています。無言のまま空に向かって両手を振り回している人…もちろんドレミにポーズを要求しているのですが傍からはそうは見えない…に声をかけられなくて困るのは,ある意味とても自然なことです。
「ごめんなさい。さっきはパンプローナの場所を勘違いしていました。一日で歩くのはムリです。」
それを伝えに城山を登って来たのです。足元を見ると,宿のものらしきゴムのサンダルを履いています。
「わかった。じゃあ,キミが帰国したあと,東京で会おう!」
「はい。」
「良い旅を!」
「お気をつけて。」
町の人,旅の人…なんと気持ちの良い出会いばかりなのでしょう。
城山を下りたボクたちは,ちょっとフンパツして,観光名所の橋が見えるレストランでバスク料理を食べることにしました。バスク料理って何でしょう。
…わかりません。とりあえず,羊肉と魚の料理を注文して,お任せのワインをぐいぐい飲ります。お酒に強い方ではないボクはたちまちへべれけです。
酔って千鳥足で歩けば,ドナウ沿いの遊歩道もアリゾナの砂漠も,新宿通りもおんなじです。
ボクはドレミに支えられながらサン=ジャン=ピエ=ド=ポルのメインストリートを闊歩します。歌はお馴染み六ー八コンビの「遠くへ行きたい」です。
3回目か4回目の間奏の口真似のところで宿に着きました。
寝静まっていますが裏口の鍵をもらってあります。起こさないように抜き足差し足。それにしても,さすが芸術の国フランスです。田舎の小さなホテルのしかも階段の壁がこのありさまです。
「ああ,今日はとっても疲れたー。」
お風呂もベッドも驚くほどオシャレでアーティスティックです。
でも風呂から上がると,もうドレミは気絶するように寝てしまいました。
バイヨンヌでチョコレート屋めぐりをしたり,この街の城山に登ったりしたのが,とても同じ日とは思えないほど長い一日。
…おやすみ。いい日だったね。