Aug.2015

5. ニーダラッドのレンタカー屋


EOS 5D MarkⅡ+ EF17-40mm f/4L USM

シュテーデル美術館の前にかかる水道橋を渡ればすぐボクたちのホテルだ。

「ねえ,カイザー通りに出てるテーブル席でランチして行かない?」

だめだ!!

「えー!?」

前回,ヨーロッパに来たときは,携帯電話を1台現地で使えるようにして持ってきた。今回はポータブルWifiを契約してきている。インターネットが使えるのは便利だが電話はできない。コインでかけられる公衆電話を探すなんて非現実的である。つまり,もしもレンタカーの予約時間に間に合わなくても,営業所に連絡するすべがない。

早く着く分には待てばいい。それに一週間以上の契約である。車の準備ができていれば多少時間が早くても出してくれるだろう。

お節介泥棒


それ!急げ!!

「ねえ,せめて中央駅のスタンドでまたパン食べようよ。」

あとあとあとあと!!

切符を買うのが手強そうだったからだ。隣の駅だが駅名の発音がわからない。

帰国後に調べたところによると,「フランクフルト・マイン・ニーダラッド駅」で,訳してみると「フランクフルト中央下輪駅」。案内所では列車が何番線から何時に出るかは丁寧に教えてくれるが,切符は売ってくれない。全く英語対応していない券売機の,それも恐ろしく反応の鈍い液晶画面に向かって,「フランクフルト・マイン・ハウプトバーンホフ駅」から「フランクフルト・マイン・ニーダラッド駅」までの切符を買わなくてはならない。悪戦苦闘しているところに,わらわらとお節介泥棒たちが次々と寄って来ては勝手に画面を操作する。

「Bitte schön(ビッテシェーン)♪」

うるさい!!邪魔だ!!だいたい「ありがとう」も言ってないのに勝手に「どういたしまして(ビッテシェーン)」すんじゃねえ!!あ!!ドレミの入れようとした2ユーロコインを受け取って,自分のポケットに入れてるよ!ふざけんな!

「Bitte schön(ビッテシェーン)♪」

お礼言うな!コインをやった覚えはない!そこ,どけよ!…あら?ニーダラッド行の切符がうまく出てきたよ。もう一枚,もう一枚。

「Bitte schön(ビッテシェーン)♪」

…ま,いっか(笑) 苦笑いしながら,こそこそ消えていく泥棒を見送った。

結局,3ユーロ(420円)ほどくすねられたようだが,こそ泥のおかげで首尾よく切符は手に入れることができた。ガイドブックにも注意するように書いてあるので,声を荒らげれば撃退できたのだろう。だが,実際,善意の市民なのかどうか区別するのは難しい。一人でも,本当に見るに見かねて助けてくれようとした人がいたとしたらと考えると,小銭くらいのこと騙されておこうと思う日本人は少なくないはずだ。それに,東京で外国人がスイカやパスモを買うことを考えたら安いもんだ。JRも地下鉄も,客にプリペイド(先払い)させておいて,一銭も割引しないなんて,それだけでも詐欺に近いのに,そのプリペイドカードに500円のデポジットをかけるなんて泥棒より質(たち)が悪い。たぶん,チャージの残ったまま返納されないカードでかなりの額を悪どく儲けていることだろう。


ニーダラッド駅は,どうやら会社や工場が多い地区にあるらしく,昼の乗降客はほとんどいない。


それでも駅そばならぬ,パン屋はあった。空腹の身には助かる。そう言えば,最近は日本でも駅にはそば屋よりパン屋の方が多い気がする。


レンタカーの時間まで1時間はあるし,駅からは歩ける距離のはずだ。それでも心配性なので,コーラとパンを代わる代わる口にしながら歩く。字も言葉もわからず,適当な値段のものを指さして買ったら,大当たり。パンにはさまっているのは美味しい粗びきのソーセージだった。こんなときには,いちばん高いものといちばん安いものは選ばないのがコツである。


駅から10分ほど歩いたところに,ガソリンスタンドがあって,その隣にポツンとレンタカーの営業所の小屋が建っていた。1時間近くも早く着いてしまった。


鍵が閉まっている。

ゲルマン魂

ドアをガチャガチャする気配に,衝立の奥からブロンドの若い美女が気怠そうに顔を出した。鍵を開けてボクらを招じ入れ,12時半から1時半までは昼休みだと英語で言った。そう言えば,予約するとき,ホームページの店舗案内にもやたらと細かく営業時間が書いてあったのを思い出した。悪いことをした。つい日本の感覚で,発着が交通事情に左右されるレンタカー屋さんには休み時間などあってないものと思い込んでいた。ここはヨーロッパである。レンタカー屋さんも,昼は白いテーブルクロスのテラス席で,昼食とコーヒーを楽しんでいるのだろう。留守番にアルバイト(おそらく)の女の子を置いていくだけでも良心的と思わなければならない。

貸し出し時間を早めるよう交渉してみたが「延長料金がかかってしまうのでやらない方がいい」と,ブロンドが言う。もう,あと45分くらいのことである。経験している人は知っていると思うが,この融通の効かなさがヨーロッパ,とりわけドイツである。融通は効かないが悪気があってのことではない。その証拠に,彼女は客が来てしまったために衝立の後ろで寝っ転がるわけにもいかず,仕事は何もないのにカウンターの席にキチンと座っている。あまりに気まずいので,声をかけ,荷物を置かせてもらって外で待つことにした。

外は立派なクラブハウスのあるサッカー練習場だった。どうやらこの支店は,広大なサッカー施設の駐車場の片隅を借りて営業しているらしい。舗装していない駐車場にレンタカーらしき車が数台並んでいる。ボクたちはサッカー場のベンチに腰掛け,気の抜けたコーラを飲みながら,残っていたパンをかじった。


「はあ,のんびりするね。」

意外にこんな時間がいちばん旅の思い出に残るものだ。

土ぼこりをあげて二台の車が駐車場に入ってきた。一台はレンタカーの社員らしきワイシャツ姿の若い男で,営業所に入り,ブロンドアルバイトと二言三言交わして衝立の後ろに消えるのが見えた。もう一台の車はサッカー場の小屋に止まり,降りてきた初老の男が散水用のバルブを操作し始めたから驚いた。何故なら先ほどから南の空に真っ黒な雲が迫り,雨が降り出すのは時間の問題だったからだ。ボクたちはこの雨を朝から把握していた。インターネットのお天気サイトによれば,付近一帯は向こう10日くらい基本晴天の予報だが,この日の午後2時から3時と,4時から5時にだけ,スコールらしき稲妻の天気マークがあった。どうやら,高い山も海もないこの地方では,雨はかなり正確に予報されるようだ。

天気予報を見ていないのだろうか。ボクたちの心配をよそに,男の作業は淡々と進み,サッカーコートには黒雲を背景に勢いよくスプリンクラーの水柱が何十本も立った。ほどなく,ますます暗くなった空からも雨がぽつぽつと降り出したので,ボクらは急いで営業所の小屋に戻った。

営業時間に入っているが小屋の中は灯りも落とされ,しーんと静まり返っている。亜麻色の髪のアルバイトもニコッとするだけで何も言わない。仕方なく椅子にかけて待つ。…と,それが契約時間のきっちり5分前!

「おーけぃー!XXXX(あとはドイツ語)」

彼女が大きな声を出したかと思うと,室内の照度が上がり,いきなりパソコンをバシバシ叩き出した。

…ちょっと農耕民族にはついていけないノリである。

キズのチェックで貸渡手続きが完了し,ぴったり午後2時に車のキーがボクの手のひらに載せられた。そしてトランクを積み込みと,まるでそれを待ってくれていたかのように篠突く雨が来た。借りたポータブルナビや日本から持ってきた車用の変圧器をセットしたり,ワイパーやクルーズコンピュータのスイッチを確認したり出発前の準備をしていると,レンタカーの社員とアルバイト娘が小屋を施錠しているのが見えた。土砂降りの中をそれぞれの車に向かって走ってゆく。

何だかそんな気がしていたのだが,今日の,少なくとも午後の客は他にはなさそうである。このロケーションでは飛び込みの客が来る可能性もゼロである。かわいそうなことをした。少しでも安い営業所を探し,日本からPCで予約しているときは思いもつかなかった。バカンスシーズンの工場地帯の午後…おそらく,ボクたちだけのために営業所は開かれたようなものだろう。その彼らにしろ天気予報は知っていたはずだ。そこに予定より1時間早く客がやってきた。しかも律儀そうな(笑)日本人夫婦である。だが,契約は契約。時間を前倒しして出発させ,仕事を済ませて,ラッキー♪という考えは彼らにはない。もし人種や国籍によって典型的な気質というものがあるとしたら,ドイツ人の謹厳,几帳面というイメージはいささか誤解である。あえて好意を前提に言わせてもらえば,実直…それも融通の効かないバカ正直である。

ボクは彼らのずぶ濡れの背中にゲルマン魂の神髄を見た。

バックミラーの中にも,もうひとりゲルマン魂の具現者がいた。それこそ滝のような雨に打たれながら,沼と化したサッカーコートのスプリンクラーを止めようとバルブを操作している。いかにも頑固そうな老人である。


サッカーW杯はきっと次回もゲルマン魂で愚直に戦うドイツが連覇するだろう。そう確信したボクは,クラッチの遊びを確かめながらゆっくり車を出した。ギアは5速マニュアルミッションだが全く苦にならない,むしろウエルカム。

そもそもボクの若い頃の東京では,もし男がATの車に乗ったりしたら人権を失った。今で言うキモヲタである。誰にも相手にされず,女の子には気味悪がられた。だからシフトタイミングもダブルクラッチも体が覚えている。軽トラにサンダルでもヒール&トウできる。


左ハンドル,右側走行,土砂降りで初めての高速…これもボクはノープロブレムなのである。なぜかいつもカチリと音がするように頭が切り替わるのだ。妻も安心して,もう隣で寝息を立てている。。


そう,これがこれから9日間のボクらの愛車である。

白い新型オペルコルサ 1.2L

前回,メルセデスの巨大ミニバンを借り,スペインの石畳の小道や地下駐車場で閉口した経験を活かし,今回はコンパクトを選んだ。

雨は止んだが,4時からまた降るだろう。この地の天気予報は正確だ。

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